《日语综合教程》第五册 第2课 田中正造

田中正造
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その()午前十一時二十分(ごぜんじゅういちじにじゅうふん)開院式(かいいんしき)(のぞ)んだ明治天皇(めいじてんのう)馬車(ばしゃ)が、車輪(しゃりん)(おと)もかろやかに、()(ぞく)(いん)()(ちょう)(かん)(しゃ)(まえ)(みち)(ひだり)()がったときである。(みち)両側(りょうがわ)居並(いなら)人々(ひとびと)(あいだ)から、(くろ)木綿(もめん)()(おり)(はかま)に、足袋跣足(たびはだしあし)老人(ろうじん)が、(かみ)()(みだ)し、一通(いっつう)(おお)きな封書(ふうしょ)片手(かたて)(ささ)()って、『――陛下(へいか)にお(ねが)いがございます。お(ねが)いがございます。』と(さけ)びながら(はし)()た。

馬車(ばしゃ)のわきを(まも)っていた騎兵(きへい)が、(やり)(きら)めかして老人(ろうじん)(さえぎ)ろうとしたが、(はず)みで(うま)がどうと(たお)れる。と、ほとんど同時(どうじ)に、その老人(ろうじん)――田中正造(たなかしょうぞう)(あし)がもつれて(まえ)(ころ)び、そこへ警官(けいかん)二人走(ふたりはし)りよって正造(しょうぞう)()さえ()けてしまったのである。

正造(しょうぞう)天皇(てんのう)への直訴(じきそ)決行(けっこう)したのだった。(かれ)(ささ)()っていた封書(ふうしょ)は、天皇(てんのう)()てた直訴状(じきそじょう)で、足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒(こうどく)()()てた村々(むらむら)有様(ありさま)農民(のうみん)たちの(くる)しみが、こまごまと(しる)されていた。

正造(しょうぞう)()(けい)(ざい)()らえられて、監獄(かんごく)につながれるのはもちろんのこと、(さい)(ばん)()(だい)では、死刑(しけい)にされるかもしれないと覚悟(かくご)していた。(かれ)自分(じぶん)()()てることによって、政府(せいふ)社会(しゃかい)鉱毒問題(こうどくもんだい)真剣(しんけん)()()むようになればよいと(かんが)えて、直訴(じきそ)決行(けっこう)したのである。

それなのに、正造(しょうぞう)警察(けいさつ)にたった一晩(ひとばん)とめられただけで、翌日(よくじつ)宿屋(やどや)(かえ)された。(かれ)()()づかって(あつ)まっていた人々(ひとびと)に、正造(しょうぞう)苦笑(にがわら)いとともにもらしたのは、『役人(やくにん)のやつら、この正造(しょうぞう)狂人(きょうじん)にしてしまいおった。』という一言(ひとこと)であった。

その言葉(ことば)どおり、政府(せいふ)は、正造(しょうぞう)不敬罪(ふけいざい)裁判(さいばん)にかける()わりに、狂人(きょうじん)としてあつかったのである。狂人(きょうじん)発作(ほっさ)()こして、たまたま天皇(てんのう)馬車(ばしゃ)(まえ)(はし)()ただけのことで、まじめに()()げるようなことではない――政府(せいふ)は、人々(ひとびと)にそう(おも)わせようとしたのだった。

正造(しょうぞう)(ねら)いは、ものの見事(みごと)(はず)されてしまったわけだ。けれども、新聞(しんぶん)雑誌(ざっし)がこの事件(じけん)()()てたので、正造(しょうぞう)真意(しんい)(ひろ)(つた)わり、政府(せいふ)足尾銅山(あしおどうざん)鉱害(こうがい)見過(みす)ごしているのは()しからんとする世論(せろん)が、次第(しだい)(つよ)くなってきたのである。

そうなると、政府(せいふ)は、渡良瀬川(わたらせがわ)利根川(とねがわ)合流点(ごうりゅうてん)(ちか)谷中村(たになかむら)を、(おお)きな遊水地(ゆうすいち)にするという計画(けいかく)発表(はっぴょう)した。鉱毒(こうどく)(ひろ)がるのは渡良瀬川(わたらせがわ)洪水(こうずい)によってのことだから、(おお)きな遊水地(ゆうすいち)(つく)って洪水(こうずい)(ふせ)げば、鉱毒(こうどく)(ひろ)がらないだろうというのだ。そして、政府(せいふ)は、谷中村(たになかむら)村民(そんみん)(かね)(あた)えて無理(むり)()退(しりぞ)かせ、計画(けいかく)どおり遊水地(ゆうすいち)工事(こうじ)(はじ)めたのである。

正造(しょうぞう)は、()()てた谷中村(たになかむら)(あと)()って、『政府は間違(まちが)っている。やるべきことは、谷中村(たになかむら)犠牲(ぎせい)にして鉱害(こうがい)範囲(はんい)(ちい)さくすることではない。足尾銅山(あしおどうざん)採鉱(さいこう)停止(ていし)させ、鉱害(こうがい)絶対(ぜったい)()こらぬ整備(せいび)(つく)らせることだ。』と(しろ)(ひげ)()るわせて(いか)(つづ)けた。

それからの正造(しょうぞう)は、鉱毒(こうどく)完全(かんぜん)防止(ぼうし)できる整備(せいび)完成(かんせい)するまで足尾銅山(あしおどうざん)採鉱(さいこう)停止(ていし)させ、(ほろ)びた谷中村(やなかむら)(もと)どおりにしようとする運動(うんどう)に、(のこ)っている(ちから)のすべてを(そそ)いだ。

国会議員(こっかいぎいん)をやめてしまった正造(しょうぞう)には、もはや国会(こっかい)(うった)える(じゅつ)はない。やむを()ず、正造(しょうぞう)は、()いて(つか)れた(からだ)をひきずっては、著名(ちょめい)政治家(せいじか)や、()()いだった議員(ぎいん)一人一人訪(ひとりひとりたず)ねて、鉱毒問題(こうどくもんだい)国会(こっかい)()()げてくれるように(たの)んで(まわ)った。昨日(きのう)西(にし)へ、今日(きょう)(ひがし)へと(はし)(まわ)正造(しょうぞう)には、たまたま自分(じぶん)(いえ)(まえ)(かよ)っても、()()っている(ひま)さえなかった。

だが、正造(しょうぞう)がけんめいになればなるほど、政治家(せいじか)たちは(かれ)()けようとした。(かれ)らは、自分(じぶん)利益(りえき)にならない面倒(めんどう)問題(もんだい)には、関係(かんけい)()ちたくなかったのである。

それでもなお、正造(しょうぞう)(あきら)めなかった。そして、運動(うんどう)熱中(ねっちゅう)するあまり、(まえ)よりもいっそう()なりを(かま)うゆとりがなくなって、あるときなど、(はじ)めて()()った宿屋(やどや)で、『じいさん、うちでは()められないよ。』と、(ことわ)られたことさえあったという。

こうして、二十年間(にじゅうねんかん)足尾銅山(あしおどうざん)鉱毒(こうどく)(たたか)い、(つか)()てた正造(しょうぞう)は、一九一三年(いちくいちぞうねん)大正二年(たいしょうにねん))の八月二日(はちがつふつか)、立ち()った栃木県吾妻村(とちぎけんあがつまむら)農家(のうか)(きゅう)(たお)れた。そして、心配(しんぱい)して(あつ)まってきた人々(ひとびと)に、正造(しょうぞう)は、『わしの(いのち)()づかう()わりに、みんなが(こころ)(ひと)つにして、鉱毒(こうどく)をなくす運動(うんどう)(さか)()げてくれ。この()()てた渡良瀬川(わたらせがわ)流域(りゅういき)に、一本(いっぽん)でも(おお)()()えてくれ。』と遺言(ゆいごん)すると、およそ(いっ)月後(げつご)九月四日(くがつよっか)永遠(えいえん)(まぶた)()めじたのである。

このとき、正造(しょうぞう)七十一歳(ななじゅういちさい)。その名前(なまえ)のとおり正直(しょうじき)で、一身(いっしん)利益(りえき)名誉(めいよ)(かえり)みることなく、正義(せいぎ)のため、人道(じんどう)のため、何者(なにもの)をも(おそ)れず(たたか)いぬいてついに(たお)れた、壮烈(そうれつ)生涯(しょうがい)であった。

死後(しご)(のこ)された正造(しょうぞう)()(もの)といっては、菅笠(すげがさ)(ちい)さな頭陀袋(ずだぶくろ)だけで、そのほかには何一(なにひと)つない。翌晩(よくばん)身寄(みよ)りの(もの)(あつ)まってその頭陀袋(ずだぶくろ)()けてみると、(はい)っていた(もの)は、(せい)(しょ)(いっ)(さつ)日記(にっき)三冊(さんさつ)、それに鼻紙(はながみ)(すこ)しだけであった。

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