田中正造
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その日の午前十一時二十分、開院式に臨んだ明治天皇の馬車が、車輪の音もかろやかに、貴族院議長官舎前の道を左へ曲がったときである。道の両側に居並ぶ人々の間から、黒い木綿の羽織袴に、足袋跣足の老人が、髪を振り乱し、一通の大きな封書を片手に捧げ持って、『――陛下にお願いがございます。お願いがございます。』と叫びながら走り出た。
馬車のわきを守っていた騎兵が、槍を煌めかして老人を遮ろうとしたが、弾みで馬がどうと倒れる。と、ほとんど同時に、その老人――田中正造も足がもつれて前に転び、そこへ警官が二人走りよって正造を押さえ付けてしまったのである。
正造は天皇への直訴を決行したのだった。彼の捧げ持っていた封書は、天皇に当てた直訴状で、足尾銅山の鉱毒で荒れ果てた村々の有様と農民たちの苦しみが、こまごまと記されていた。
正造は不敬罪で捕らえられて、監獄につながれるのはもちろんのこと、裁判次第では、死刑にされるかもしれないと覚悟していた。彼は自分が身を捨てることによって、政府や社会が鉱毒問題に真剣に取り組むようになればよいと考えて、直訴を決行したのである。
それなのに、正造は警察にたった一晩とめられただけで、翌日は宿屋へ帰された。彼の身を気づかって集まっていた人々に、正造が苦笑いとともにもらしたのは、『役人のやつら、この正造を狂人にしてしまいおった。』という一言であった。
その言葉どおり、政府は、正造を不敬罪で裁判にかける代わりに、狂人としてあつかったのである。狂人が発作を起こして、たまたま天皇の馬車の前へ走り出ただけのことで、まじめに採り上げるようなことではない――政府は、人々にそう思わせようとしたのだった。
正造の狙いは、ものの見事の外されてしまったわけだ。けれども、新聞や雑誌がこの事件を書き立てたので、正造の真意は広く伝わり、政府は足尾銅山の鉱害を見過ごしているのは怪しからんとする世論が、次第に強くなってきたのである。
そうなると、政府は、渡良瀬川と利根川の合流点に近い谷中村を、大きな遊水地にするという計画を発表した。鉱毒の広がるのは渡良瀬川の洪水によってのことだから、大きな遊水地を造って洪水を防げば、鉱毒も広がらないだろうというのだ。そして、政府は、谷中村の村民に金を与えて無理に立て退かせ、計画どおり遊水地の工事を始めたのである。
正造は、荒れ果てた谷中村の跡に立って、『政府は間違っている。やるべきことは、谷中村を犠牲にして鉱害の範囲を小さくすることではない。足尾銅山の採鉱を停止させ、鉱害が絶対に起こらぬ整備を作らせることだ。』と白い髭を振るわせて怒り続けた。
それからの正造は、鉱毒を完全に防止できる整備が完成するまで足尾銅山の採鉱を停止させ、滅びた谷中村を元どおりにしようとする運動に、残っている力のすべてを注いだ。
国会議員をやめてしまった正造には、もはや国会で訴える術はない。やむを得ず、正造は、老いて疲れた体をひきずっては、著名な政治家や、知り合いだった議員を一人一人訪ねて、鉱毒問題を国会で取り上げてくれるように頼んで回った。昨日は西へ、今日は東へと走り回る正造には、たまたま自分の家の前を通っても、立ち寄っている暇さえなかった。
だが、正造がけんめいになればなるほど、政治家たちは彼を避けようとした。彼らは、自分の利益にならない面倒な問題には、関係を持ちたくなかったのである。
それでもなお、正造は諦めなかった。そして、運動に熱中するあまり、前よりもいっそう身なりを構うゆとりがなくなって、あるときなど、初めて立ち寄った宿屋で、『じいさん、うちでは泊められないよ。』と、断られたことさえあったという。
こうして、二十年間も足尾銅山の鉱毒と戦い、疲れ果てた正造は、一九一三年(大正二年)の八月二日、立ち寄った栃木県吾妻村の農家で急に倒れた。そして、心配して集まってきた人々に、正造は、『わしの命を気づかう代わりに、みんなが心を一つにして、鉱毒をなくす運動を盛ん上げてくれ。この荒れ果てた渡良瀬川の流域に、一本でも多く木を植えてくれ。』と遺言すると、およそ一か月後の九月四日、永遠に瞼を閉めじたのである。
このとき、正造は七十一歳。その名前のとおり正直で、一身の利益や名誉を顧みることなく、正義のため、人道のため、何者をも恐れず戦いぬいてついに倒れた、壮烈な生涯であった。
死後に残された正造の持ち物といっては、菅笠と小さな頭陀袋だけで、そのほかには何一つない。翌晩、身寄りの者が集まってその頭陀袋を開けてみると、入っていた物は、聖書一冊と日記が三冊、それに鼻紙が少しだけであった。
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