田中正造
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正造が、国会で火のような弁舌をふるって忠告したにもかかわらず、明治政府は、『群馬·栃木の両県の田畑で作物が枯れたりしているのは事実だが、足尾銅山の鉱毒が原因かどうかは分からない。』と言って、問題を取り上げようとしなかった。
しかし、正造は、確かな証拠を持っていたのである。と言うのは、すでに前の年、正造と農民たちは、農科大学(今の東京大学農学部)の古在由直助教授に頼んで、足尾銅山の鉱石の滓と被害地の土*水の調査をしてもらっていた。その結果が、正造たちの予期していたとおりだったのである。足尾銅山から流れ出る水は、銅、鉄分及び硫酸をおびただしく含んでおり、動植物が死んだり枯れたりするのはそのせいであるというのだ。
そこで正造は、翌年五月に開かれた第三議会で再び演壇に立ち、動かぬ証拠を示して言葉鋭く政府に迫った。科学的な調査の結果を見せられては、政府も足尾銅山の鉱毒を認めないわけにはいかない。政府は、銅山を経営する会社に注意を促し、会社はようやく粉鉱採集機というものを備え付けて、鉱石の細かな滓が散らばらないよう処置したのである。
『もう大丈夫。これも、田中のとっさまのおかげです。』
農民たちはそう言って喜び、稲も麦も豊かに実ってくれるものと期待したのであった。
だが、農民たちのその期待は失望におわった。粉鉱採集機もさっぱり効き目がなく、二年たっても、三年たっても、渡良瀬川の魚の死ぬのはやまないし、作物もはかばかしくは実らない。いや、それどころか、鉱毒の害はますますひどくなっていくのだ。
そして、鉱山拡大のため山の木を切り過ぎたことも祟って、一八九六年(明治二十九年)の秋、大雨のため渡良瀬川の堤防が切れると、鉱毒で汚れた水は、たちたち沿岸八十八の村々を襲う、目も当てられぬ有様となったのである。
正造はまたしても議会の演壇に立ち、『足尾銅山の採鉱を停止すること、それ以外に村々を救う道はありませぬ。』と叫ぶのだった。
正造の言うとおり採鉱をやめれば、確かに鉱害はなくなるだろう。しかし、銅の産出量が少なくなれば、その分だけ日本の国力も弱くなる。そこで、政府は銅山側に命令して、二十か所に鉱毒沈殿地と鉱毒濾過池を造らせたのである。銅山側は、『これで、二度と鉱害は起こりません。』と明言し、農民たちもようやく胸を撫で下ろした。
ところが、一八九八年(明治三十一年)の九月のこと、降りしきる雨に、沈殿池と濾過池の堤防脆くも崩れた。そして、たまりにたまっていた鉱毒は、いちどきに渡良瀬川へ流れこみ、またたく間に、沿岸の田畑数万町歩を覆ってしまったのである。これでは、もう半永久的に作物は実らないだろう。
思い余った農民たちは、九月二十六日の夜更け前、蓑笠と新しいわらじに身と固め、渡良瀬川中流の渡瀬村にある雲龍寺の境内に集まった。その数はおよそ一万人。彼らは、生きるために、大挙して東京へ押し出し、足尾銅山の経営者と政府とに直接かけ合おうというのである。
やがで、東の空が白むころ、農民たちの大群は南へ南へと動き始めた。これに気付いた警察は、農民たちを東京へ入れまいとして、あちこちの橋を壊して回る。そこで、農民たちが船で川を渡ろうとすると、警察はサーベルを引き抜いて、あくまでも農民たちを追い返そうとし、多くの犠牲者が出たのだった。
このとき正造は東京におり、風邪を引いて宿屋の一室で寝ていたが、知らせを聞くとはね起きた。そして、人力車をひた走りに走らせ、埼玉県境の淵江村で農民たちに行き会うと、『皆様、待ってくだされ。この正造の言うことを聞いてくだされ。』と、両手を広げて押しとめた。それから、声を振り絞って、『この田中正造、皆様の煮えくり返る胸の内、ようく知って下ります。しかしながら、皆様、これだけの人数で帝都へ押しかけるのは穏やかでありませぬし、犠牲者をこれ以上増やしてもなりませぬ。この日本は、法治国家であります。われわれの希望や要求は、あくまでも議会を通して、平和のうちに実現させなくてはなりませぬ。』
正造の真心からの言葉を聞くと、農民たちはみな、ほこりまみれの顔をぬらして男泣きに泣いた。そうして、胸の奥で正造を拝みながら、『わしらは、田中のとっさまを信じております。お言葉どおりにいたしましょう。』と、五十名の代表を残して、あとの者はおとなしく村々へ帰って言ったのである。
それからというもの、正造は農民たちの信頼に応じえようと、昼も夜もなく動いた。議会では今夜食べる物もない農民たちの惨めさを涙ながらに話し、町では鉱毒問題演説会を開いて、鉱毒地に目を注いでくれるよう人々に訴えた。
鉱毒地を救おうという運動は野火のように広がった。人々は鉱毒地の農民に同情を寄せ、村々を視察したり、お金や衣類などを寄付したりした。
けれども、鉱毒のおそろしさは実際に被害を受けたものでなくては、本当には分からない。農民たちはその後も東京へ押し出したが、犠牲者を出しただけで終わり、年月とともに世間は鉱毒問題を少しずつ忘れていった。そして、ついには、『足尾銅山の鉱毒問題かね。あれは、田中正造が選挙の票稼ぎを狙って、一人騒いているだけさ。』と言うようにまでなってしまったのである。
正造の心は重かった。一身や党派の利害をはなれて、ひたすら正義のために働いているというのに、世間では選挙運動としか思ってくれないのだ。しかも、鉱毒地の農民たちの生活は年ごとに苦しくなり、芋粥も啜れない家や、困り果てた末、家族が散り散りになる家さえも出てきているのである。
「この先、わしはいったい何をしたらよいのだろうか――。」
苦しみのため、額に深いしわが刻まれ、ひげの真っ白に変わった正造には、腕を組んで考え込む日々が続いた。そして、一九〇一年(明治三十四年)の秋になって、正造は何事か決心をしたらしく、衆議院に辞表を出して議員をやめたのである。
正造がなんのためにそんなことをしたのかは、その年の十二月十日、第十六議会の開院式の当日明らかになった。
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