田中正造
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一八九一年(明治二十四年)の十二月に二十五日、日本に国会が開設されて第二回目の議会でのことである。年齢は五十歳ぐらい、がっしりとした体つきの男が演壇に立ち、政府への質問演説に熱弁とふるっていた。満場、きちんと洋服を着た議員ばかりなのに、其の男の身につけているのは、粗末な木綿の着物と袴。しかも、髪は乱れ放題で、気にかける様子は全くない。
彼は、かたわらの袋から、死んだ魚や立ち枯れ稲など、不気味なものを取り出しては、『足尾銅山の流す鉱毒のため、渡良瀬川の流域では、これ、このとおり魚は死に、作物は枯れてしまう。政府は、直ちに銅山に命じて鉱石を掘ることをやめさせ、銅山の経営者は、農民たちの被害を償うべきであります。』と叫ぶのだった。
この男の名は田中正造。正義と人道のために一身を捧げつくして、後に、『明治の義人』と呼ばれるようになった人物である。
関東地方の地図を開くと、栃木県の西北部、有名な中禅寺湖の近くに、足尾という銅山の在るのが分かる。江戸時代にも鉱石が掘り出されでいたが、一八七七年(明治十年)にある実業者がこの銅山を買い取ってからは、鉱夫の数は三千人、年間四千百トン余りもの銅を産出するようになり、それとともに、鉱毒の害があらわになって出たのである。
雨が降ると、捨てた鉱石の滓から毒が染み出て、近くを流れる渡良瀬川は青白く濁り、何万匹もの魚が白い腹を見せて浮き上がる、その近くの畑に植えた作物は、根から腐って枯れてしまう。そして、一八八七年(明治二十年)ごろからは、渡良瀬川沿岸一帯の村々の田畑が不作となり、農民たちは貧苦の底に沈むようになったのだった。
一八四一年(天保十二年)十一月三日、今の栃木県佐野市に生まれた田中正造は、元の名を兼三郎といったが、二十八歳の時、『人間にとって一番大切なのは、正しい生きることだ。人生五十年とすれば、わたしは、もうその半ばを過ぎている。せめてこれから先は、正義を貫いていきたいものだ。』と考えて、自ら『正造』と改名した。
そして、昼間学校へ通えない青少年のために夜学会を開いたり、『栃木新聞』という新聞を出して、民衆の権利を出張し、郷土の人々の役に立つ記事を載せたりした。しかし、正造が正しいと信じることは、なかなか世の中へ広まっていかない。そこで、正造は、一八八〇年(明治十三年)には栃木県会議員に、一八八〇年(明治二十三年)には衆議院議員になって、自分の考えを実際の政治の上に生かそうとしていたのだった。
そういう正造だから、今、足尾銅山の鉱毒に苦しむ農民たちを見て、黙っていることはできない。彼は、農民の代表として、『山から銅を採って、日本の国を豊かにするのは、確かに大切なことでありましょう。だが、そのために多くの農民を犠牲にすることは、絶対に許されませぬ。』と訴え、鉱毒問題と真剣に取り組み始めたのである。
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