《日语综合教程》第五册 第9课 「的」の文化

「的」の文化

現代(げんだい)日本語(にほんご)で「(てき)」のつくことば、とくに修飾(しゅうしょく)()として形容動詞(けいようどうし)副詞(ふくし)になることばは、「端的(たんてき)」とか「大大的(だいだいてき)」とかの少数(しょうすう)(れい)(のぞ)いて、ほとんどがまず日本(にほん)(せい)漢語(かんご)であると(かんが)えてよい。

日本(にほん)(せい)漢語(かんご)の「――(てき)」には、おのずから日本人(にほんじん)独自(どくじ)感覚(かんかく)がともなう。たとえば「好意(こうい)(てき)姿勢(しせい)(かん)じた」という場合(ばあい)の「好意(こうい)(てき)」、それはこちらに(たい)して好意(こうい)があるような、ないようなというところから、ひょっとすると相手(あいて)は、こっちとつきあいたいのかもしれないという、好意(こうい)はたしかにわかるが、そのていどのほどが正確(せいかく)にはわからないというあたりまでの範囲(はんい)(しめ)すことばとして(もち)いられている。それはかなり(はば)(ふく)みとをもったことばである。それとともに、あとで相手(あいて)にまったく好意(こうい)がないことがわかったときでも、いやあのときはあえて「好意(こうい)(てき)」と()べたのでして、(べつ)に「好意(こうい)(かん)じた」とは(もう)しておりません、と()げることもできる。議会(ぎかい)における官僚(かんりょう)答弁(とうべん)用語(ようご)として、あたかもふさわしい。それはまた、一方(いっぽう)では正確(せいかく)にものをいおうとする心理(しんり)満足(まんぞく)させる。それゆえに「(てき)」を(もち)いたことばは、インテリの()くものに、とくに学者(がくしゃ)()くものに(おお)くあらわれる。正に、「学者(がくしゃ)発想(はっそう)」にかなうというものである。

ときにそれは、アンダーステートメントにものを()おうとする場合(ばあい)にもつごうがよい。とくに(わる)方向(ほうこう)においてものをいおうとする場合(ばあい)に、そのものをズバリといわずに、それらしいにおい、それらしい雰囲気(ふんいき)(かん)じたという()(みち)用意(ようい)して、遠慮(えんりょ)がちな姿勢(しせい)でものをいうことができる。「封建(ほうけん)(てき)なものを(かん)じます」というとき、相手(あいて)封建(ほうけん)主義(しゅぎ)(しゃ)だとはっきりきめつけるよりも抵抗(ていこう)(すく)なくてすむ。「反抗(はんこう)(てき)言辞(げんじ)はよしたまえ」と目下(めした)にいいきかせるときでも、相手(あいて)のことばを反抗(はんこう)のことばだとはきめつけていない。

自分(じぶん)のことに関連(かんれん)していうときには、いくぶん自分(じぶん)をかばいたいという心理(しんり)をも充足(じゅうそく)させることができる。たとえば「屈辱(くつじょく)をおぼえた」というべきところでも、「屈辱(くつじょく)(てき)だ」といったりする。(した)しい相手(あいて)などに(たい)していうときは、あいまいさがうまく()きて、かえって効果(こうか)(てき)なはたらきを(しめ)すおりもある。「(きみ)はすばらしい」と単純(たんじゅん)にいってしまうよりも、「(きみ)魅力(みりょく)(てき)だ」といった(ほう)が、相手(あいて)のいいしれぬ質素(しっそ)がかえってそこはかとなく(しめ)されるというものだ。

ことばにニュアンスをともなわせる接尾(せつび)()として、日本語(にほんご)における「(てき)」ということばは、日本人(にほんじん)体質(たいしつ)にかなった、ふしぎな交響(こうきょう)をただよわせる、おもしろいことばである。「ドイツ(てき)」とか「ブルジョア(てき)」とか、外来(がいらい)()にも「(てき)」は自由(じゆう)につけられる。ついこのあいだまで、やまとことばにじかに「(てき)」をつけたことばとして「どろてき」((どろ)(てき))「とりてき」(取的(とりてき))ということばがあった。本職(ほんしょく)のどろぼう(てき)な「こそどろ」が「どろてき」であり、本職(ほんしょく)のすもうとり(てき)な「ふんどしかつぎ」が「とりてき」であった。ほんものとはいいがたいもの、ほんものより(いっ)()さがったもの、という意識(いしき)をこめたのが、「どろてき」「とりてき」の「(てき)」の心理(しんり)である。それは漢語(かんご)に「(てき)」をつけて(もち)いる心理(しんり)共通(きょうつう)している。

このあいだ。これも料理(りょうり)番組(ばんぐみ)であったが、ある(わか)いアナウンサーが、「あじ((あじ)(てき)にどうですか」とやっていた。日本語(にほんご)の「(てき)」には、まったく無意味(むいみ)なそえ()としての「(てき)」もあり、たとえばよくアナウンサーなどが相手(あいて)()いかける「気分(きぶん)(てき)にはどうですか」などがそれであるが、「あじ(てき)」の「(てき)」は、「気分(きぶん)(てき)」の「(てき)」と同類(どうるい)用法(ようほう)なのであろう。どうもやまとことばにじかに「(てき)」をつけるのは、なおいささかなじめないものをおぼえるのであるが、それはわたくしが(とし)をとった証拠(しょうこ)なのかもしれない。(わか)人々(ひとびと)は、いっこうに頓着(とんじゃく)せずに、「まるであらし(てき)(あめ)だ」とか、「あそび(てき)にはともかくおもしろいぞ」などとやってのける。そうした用法(ようほう)(みみ)にすると、さっそく日本語(にほんご)(みだ)れなどと()識者(しきしゃ)はいうかもしれないのであるが、しかしそれもよいではないか。「どろてき」「とりてき」のれいもある。とらわれずに(あたら)しいいいかたを自由(じゆう)にくふうしてゆくのが、若者(わかもの)特権(とっけん)でもある。そうしたことから(つぎ)世代(せだい)のことばが()まれてくるというものだ。

日本(にほん)には「(おく)ゆかしい」という美意識(びいしき)がある。なんとなくもっと(おく)(すす)んでみたい、もっと実体(じったい)をつかんでみたい、という雰囲気(ふんいき)をただよわせるものが、「(おく)ゆかしい」という美意識(びいしき)内容(ないよう)である。その美意識(びいしき)は、(ぎゃく)には、はっきりいいきってしまうこと、明確(めいかく)にわかってしまうことは、かえってものごとのあじわいをこわすものだという心理(しんり)展開(てんかい)してゆく。日本人(にほんじん)()きな芸術(げいじゅつ)(ろん)である「有心(うしん)」にしても、「幽玄(ゆうげん)」にしても、「象徴(しょうちょう)」にしても、みな「(おく)ゆかしさ」を(もと)める心情(しんじょう)とかよいあっている。そのことについてわたくしは、「幻暈(げいうん)嗜好(しこう)」と(だい)して(なん)(かい)かにわたって(ろん)じてきたが、ことばに、それらしいもの、それに(じゅん)ずるもの、それにあやかるもの、それに(ちか)いもの、などの余情(よじょう)(しめ)接尾(せつび)()をつけて使(つか)おうとするのは、やはり日本人(にほんじん)固有(こゆう)幻暈(げいうん)嗜好(しこう)のあらわれである。

日本人(にほんじん)は、ものごとを明確(めいかく)にいいきるのを()ける傾向(けいこう)が、いささか(つよ)いようだ。平安(へいあん)時代(じだい)以来(いらい)、ものがたりでも「らし」とか「なんめり」とかのことばが頻用(ひんよう)されている。漢語(かんご)は、元来(がんらい)、より明確(めいかく)にものをいおうとする方向(ほうこう)にたつ言語(げんご)で、したがって(すこ)しでも(ちが)現象(げんしょう)には、それに(そく)した語彙(ごい)がくふうされるのであるが、日本人(にほんじん)使用(しよう)する漢語(かんご)は、なにかそこに「ぼかし」がほしくなって、明確(めいかく)漢語(かんご)をかえってあいまいにして使(つか)おうとするし、また、日本(にほん)(せい)漢語(かんご)においても、たとえば「(てき)」の造語(ぞうご)のようなものが、日本人(にほんじん)体質(たいしつ)にあったものとしてしきりに愛用(あいよう)されるようになるのではなかろうか。

また、こうしたこともいえるかもしれない。中国(ちゅうごく)生活(せいかつ)から()まれ、中国人(ちゅうごくじん)感覚(かんかく)()ざした漢語(かんご)は、結局(けっきょく)日本人(にほんじん)的確(てきかく)にはつかまえられないということもあって、自信(じしん)もないままに、漢語(かんご)そのものを、それとして(もち)いずに、それらしい感覚(かんかく)だという「ぼかし」をつけ(くわ)えて(もち)いようとする傾向(けいこう)もあるのではないか。漢語(かんご)に「(くさ)い」とか「そう」とかの接尾(せつび)()をつけ(くわ)える心理(しんり)は、主要(しゅよう)にはそうしたものとして理解(りかい)できよう。それは「てれ」の心理(しんり)から(はっ)するということも可能(かのう)である。

外国(がいこく)(じん)とくらべたとき、日本人(にほんじん)には「てれや」が(おお)い。無意味(むいみ)愛想(あいそ)(わら)い、はにかみ(わら)い、それは日本人(にほんじん)無気味(ぶきみ)ななぞとして外国(がいこく)(じん)にうつる場合(ばあい)(すく)なくないのであるが、その心情(しんじょう)(そこ)にあるものは、ほかでもない、単純(たんじゅん)な「てれ」である。そうした「てれ」の(こころ)にあたかもかなうものが、「(てき)」ということばであったのかもしれない。中国(ちゅうごく)人々(ひとびと)は、(むかし)から、日本人(にほんじん)のようにやたらにてれるということをせず、つねに堂々(どうどう)と、自己(じこ)伝統(でんとう)文化(ぶんか)自信(じしん)をもって生活(せいかつ)しているのだ。それに(たい)して、国語(こくご)(うつ)文字(もじ)すら借用(しゃくよう)したものですまさねばならなかった日本人(にほんじん)は、どうしても「てれ」の気持(きも)ちがつねにつきまとう。いま自分(じぶん)使(つか)っている漢語(かんご)は、本当(ほんとう)使(つか)(かた)ではないのではないか。どこかに誤解(ごかい)があるのではないか。そうした心理(しんり)がつみ(かさ)なってゆくと、いきおい「てれ」の表情(ひょうじょう)(はし)ってゆくものである。

明治(めいじ)知識人(ちしきじん)は、たくましく、ヨーロッパの近代(きんだい)文明(ぶんめい)にたちむかっていった。そこには、従前(じゅうぜん)漢語(かんご)ではとうてい充足(じゅうそく)しきれない(あたら)しいものがみちみちていた。日本人(にほんじん)はその瞬間(しゅんかん)、「てれ」を(わす)れて、勇敢(ゆうかん)に、猛然(もうぜん)と、(しん)漢語(かんご)造語(ぞうご)しながらこの(あたら)しい文明(ぶんめい)にとびかかっていった。こうしてたくさんの、近代(きんだい)文明(ぶんめい)にまつわる日本(にほん)(せい)漢語(かんご)(つく)()したのであった。当初(とうしょ)のヨーロッパ文明(ぶんめい)をうつしかえた日本人(にほんじん)漢語(かんご)は、いずれも毅然(きぜん)といいきっている。

ひとまずそうした言語(げんご)格闘(かくとう)()わったあと、また日本(にほん)知識人(ちしきじん)には「てれ」の(こころ)がまいもどってきたのかもしれない。それ以後(いご)使(つか)漢語(かんご)には、やたらに「(てき)」というぼかしをつけ(くわ)えるようになった。現代(げんだい)日本人(にほんじん)は、「(てき)」をつけた漢語(かんご)使(つか)ったり、「(てき)」のついた漢語(かんご)造語(ぞうご)したりする気力(きりょく)をも(うしな)って、やたらと外国(がいこく)()をなまのままで使(つか)おうとしている。あるいはまた、「漫画(まんが)チックだ」などのことばに()るように、日本人(にほんじん)にとっては便利(べんり)であった「(てき)」をすら、外国(がいこく)()(てき)いいまわしにおきかえようとしている。

ともあれ、現代(げんだい)日本語(にほんご)において(もち)いられている「(てき)」をつけた漢語(かんご)、それはほとんどが日本(にほん)(せい)漢語(かんご)で、中国語(ちゅうごくご)とはまったく(べつ)日本語(にほんご)なのである。その(なか)にはたとえば「理想(りそう)(てき)生活(せいかつ)」などの「理想(りそう)(てき)」の(れい)のように、ごくまれには中国語(ちゅうごくご)として(もち)いられるものもあるにしても、しかしそれもまた日本語(にほんご)(はっ)する漢語(かんご)であることにはかわりない。このような、日本(にほん)独自(どくじ)のことばを大量(たいりょう)()()した裏面(りめん)には、日本人(にほんじん)独特(どくとく)体質(たいしつ)というものを(かん)()ることができる。ともかく「(てき)」の文化(ぶんか)は、日本(にほん)特有(とくゆう)のものである。

ただし「(てき)」の文化(ぶんか)は、すべてをあるひとつのことばでズバリといいきろうとはせず、(ほか)のことばに適当(てきとう)に「(てき)」をつけてとりあえず()()わせておくということにもなるので、()()らなければ、(べつ)のことばに「(てき)」をつけてとりかえることもできる。「(てき)」がつくことばには、()にいらなければかえればよいという気安(きやす)さ、自由(じゆう)さ、融通(ゆうずう)むげさがある。それもまた、(いち)(めん)からすれば、日本人(にほんじん)性格(せいかく)(はっ)するものである。そうした融通(ゆうずう)むげさが、日本人(にほんじん)のたくましい応用(おうよう)(りょく)をつちかってきたのだ。

(『漢語(かんご)日本人(にほんじん)』みすず書房(しょぼう)より。一部(いちぶ)削除(さくじょ)あり)

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