「的」の文化
現代の日本語で「的」のつくことば、とくに修飾語として形容動詞や副詞になることばは、「端的」とか「大大的」とかの少数例を除いて、ほとんどがまず日本製漢語であると考えてよい。
日本製漢語の「――的」には、おのずから日本人独自の感覚がともなう。たとえば「好意的姿勢を感じた」という場合の「好意的」、それはこちらに対して好意があるような、ないようなというところから、ひょっとすると相手は、こっちとつきあいたいのかもしれないという、好意はたしかにわかるが、そのていどのほどが正確にはわからないというあたりまでの範囲を示すことばとして用いられている。それはかなり幅と含みとをもったことばである。それとともに、あとで相手にまったく好意がないことがわかったときでも、いやあのときはあえて「好意的」と述べたのでして、別に「好意を感じた」とは申しておりません、と逃げることもできる。議会における官僚答弁の用語として、あたかもふさわしい。それはまた、一方では正確にものをいおうとする心理を満足させる。それゆえに「的」を用いたことばは、インテリの書くものに、とくに学者の書くものに多くあらわれる。正に、「学者の発想」にかなうというものである。
ときにそれは、アンダーステートメントにものを言おうとする場合にもつごうがよい。とくに悪い方向においてものをいおうとする場合に、そのものをズバリといわずに、それらしいにおい、それらしい雰囲気を感じたという逃げ道を用意して、遠慮がちな姿勢でものをいうことができる。「封建的なものを感じます」というとき、相手を封建主義者だとはっきりきめつけるよりも抵抗が少なくてすむ。「反抗的な言辞はよしたまえ」と目下にいいきかせるときでも、相手のことばを反抗のことばだとはきめつけていない。
自分のことに関連していうときには、いくぶん自分をかばいたいという心理をも充足させることができる。たとえば「屈辱をおぼえた」というべきところでも、「屈辱的だ」といったりする。親しい相手などに対していうときは、あいまいさがうまく生きて、かえって効果的なはたらきを示すおりもある。「君はすばらしい」と単純にいってしまうよりも、「君は魅力的だ」といった方が、相手のいいしれぬ質素がかえってそこはかとなく示されるというものだ。
ことばにニュアンスをともなわせる接尾語として、日本語における「的」ということばは、日本人の体質にかなった、ふしぎな交響をただよわせる、おもしろいことばである。「ドイツ的」とか「ブルジョア的」とか、外来語にも「的」は自由につけられる。ついこのあいだまで、やまとことばにじかに「的」をつけたことばとして「どろてき」(泥的)「とりてき」(取的)ということばがあった。本職のどろぼう的な「こそどろ」が「どろてき」であり、本職のすもうとり的な「ふんどしかつぎ」が「とりてき」であった。ほんものとはいいがたいもの、ほんものより一歩さがったもの、という意識をこめたのが、「どろてき」「とりてき」の「的」の心理である。それは漢語に「的」をつけて用いる心理と共通している。
このあいだ。これも料理番組であったが、ある若いアナウンサーが、「あじ(味)的にどうですか」とやっていた。日本語の「的」には、まったく無意味なそえ字としての「的」もあり、たとえばよくアナウンサーなどが相手に問いかける「気分的にはどうですか」などがそれであるが、「あじ的」の「的」は、「気分的」の「的」と同類の用法なのであろう。どうもやまとことばにじかに「的」をつけるのは、なおいささかなじめないものをおぼえるのであるが、それはわたくしが年をとった証拠なのかもしれない。若い人々は、いっこうに頓着せずに、「まるであらし的な雨だ」とか、「あそび的にはともかくおもしろいぞ」などとやってのける。そうした用法を耳にすると、さっそく日本語の乱れなどと世の識者はいうかもしれないのであるが、しかしそれもよいではないか。「どろてき」「とりてき」のれいもある。とらわれずに新しいいいかたを自由にくふうしてゆくのが、若者の特権でもある。そうしたことから次の世代のことばが生まれてくるというものだ。
日本には「奥ゆかしい」という美意識がある。なんとなくもっと奥へ進んでみたい、もっと実体をつかんでみたい、という雰囲気をただよわせるものが、「奥ゆかしい」という美意識の内容である。その美意識は、逆には、はっきりいいきってしまうこと、明確にわかってしまうことは、かえってものごとのあじわいをこわすものだという心理に展開してゆく。日本人が好きな芸術論である「有心」にしても、「幽玄」にしても、「象徴」にしても、みな「奥ゆかしさ」を求める心情とかよいあっている。そのことについてわたくしは、「幻暈嗜好」と題して何回かにわたって論じてきたが、ことばに、それらしいもの、それに準ずるもの、それにあやかるもの、それに近いもの、などの余情を示す接尾語をつけて使おうとするのは、やはり日本人に固有の幻暈嗜好のあらわれである。
日本人は、ものごとを明確にいいきるのを避ける傾向が、いささか強いようだ。平安時代以来、ものがたりでも「らし」とか「なんめり」とかのことばが頻用されている。漢語は、元来、より明確にものをいおうとする方向にたつ言語で、したがって少しでも違う現象には、それに即した語彙がくふうされるのであるが、日本人が使用する漢語は、なにかそこに「ぼかし」がほしくなって、明確な漢語をかえってあいまいにして使おうとするし、また、日本製漢語においても、たとえば「的」の造語のようなものが、日本人の体質にあったものとしてしきりに愛用されるようになるのではなかろうか。
また、こうしたこともいえるかもしれない。中国の生活から生まれ、中国人の感覚に根ざした漢語は、結局日本人に的確にはつかまえられないということもあって、自信もないままに、漢語そのものを、それとして用いずに、それらしい感覚だという「ぼかし」をつけ加えて用いようとする傾向もあるのではないか。漢語に「臭い」とか「そう」とかの接尾語をつけ加える心理は、主要にはそうしたものとして理解できよう。それは「てれ」の心理から発するということも可能である。
外国人とくらべたとき、日本人には「てれや」が多い。無意味な愛想笑い、はにかみ笑い、それは日本人の無気味ななぞとして外国人にうつる場合も少なくないのであるが、その心情の底にあるものは、ほかでもない、単純な「てれ」である。そうした「てれ」の心にあたかもかなうものが、「的」ということばであったのかもしれない。中国の人々は、昔から、日本人のようにやたらにてれるということをせず、つねに堂々と、自己の伝統文化に自信をもって生活しているのだ。それに対して、国語を写す文字すら借用したものですまさねばならなかった日本人は、どうしても「てれ」の気持ちがつねにつきまとう。いま自分が使っている漢語は、本当の使い方ではないのではないか。どこかに誤解があるのではないか。そうした心理がつみ重なってゆくと、いきおい「てれ」の表情に走ってゆくものである。
明治の知識人は、たくましく、ヨーロッパの近代文明にたちむかっていった。そこには、従前の漢語ではとうてい充足しきれない新しいものがみちみちていた。日本人はその瞬間、「てれ」を忘れて、勇敢に、猛然と、新漢語を造語しながらこの新しい文明にとびかかっていった。こうしてたくさんの、近代文明にまつわる日本製漢語を作り出したのであった。当初のヨーロッパ文明をうつしかえた日本人の漢語は、いずれも毅然といいきっている。
ひとまずそうした言語の格闘が終わったあと、また日本の知識人には「てれ」の心がまいもどってきたのかもしれない。それ以後に使う漢語には、やたらに「的」というぼかしをつけ加えるようになった。現代の日本人は、「的」をつけた漢語を使ったり、「的」のついた漢語を造語したりする気力をも失って、やたらと外国語をなまのままで使おうとしている。あるいはまた、「漫画チックだ」などのことばに見るように、日本人にとっては便利であった「的」をすら、外国語的いいまわしにおきかえようとしている。
ともあれ、現代日本語において用いられている「的」をつけた漢語、それはほとんどが日本製の漢語で、中国語とはまったく別の日本語なのである。その中にはたとえば「理想的生活」などの「理想的」の例のように、ごくまれには中国語として用いられるものもあるにしても、しかしそれもまた日本語に発する漢語であることにはかわりない。このような、日本独自のことばを大量に生み出した裏面には、日本人独特の体質というものを感じ取ることができる。ともかく「的」の文化は、日本特有のものである。
ただし「的」の文化は、すべてをあるひとつのことばでズバリといいきろうとはせず、他のことばに適当に「的」をつけてとりあえず間に合わせておくということにもなるので、気に入らなければ、別のことばに「的」をつけてとりかえることもできる。「的」がつくことばには、気にいらなければかえればよいという気安さ、自由さ、融通むげさがある。それもまた、一面からすれば、日本人の性格に発するものである。そうした融通むげさが、日本人のたくましい応用力をつちかってきたのだ。
(『漢語と日本人』みすず書房より。一部削除あり)
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