蘭
列車の中は、国民服やモンペ姿の人達で混み合っていた。立ったままで座席に寄りかかっている者がある。通路に荷物を置いてそれに腰を下している者もいる。
暑い。すでに西陽の時刻でもあった。
二人掛けの座席はいたるところで三人掛けになり、窮屈そうに身を寄せ合った乗客が、晴れない顔付きで扇子や団扇を使っている。網棚の荷物をしきりに気にしている老婆は耳が遠いらしく、隣の男に、この次はどこの駅かと大きな声でたずねていた。
窓際の席で父親と向かい合っているひさし少年は、頑丈そうでもないからだを腰板に押しつけられながら、さっきから歯の痛みをじっと、堪えているのだが、こんな時は、遠くの席の赤ん坊の泣き声まで耳にたった。
小学校も最後の夏休みに、父親の出席する葬儀について行ったのはいいけれど、帰りの列車に乗ると間もなく、思いがけない歯痛になった。いつ父親に言い出したものかと、周囲の乗客にも気兼ねして、すっかり固くなっている。
父親は、扇子を片手に握りしめたまま、反対の手で、時々、胸のポケットからハンカチーフを取り出して額の汗を押えていた。家にいる限り、暑さを訴えることも、寒さを訴えることも滅多にない父親であるが、その父親がこの車内の暑さを堪え難く思っているのはほかでもない。平素着慣れない国民服というものを着用しているのと、列車の窓に鎧戸が下されているためだった。
列車は、内海に沿って東に走っていた。
しかし、この鉄道の沿線にはずっと軍需工場が続いているので、乗客はその地域を通る間中、どんなに暑くても当局の命令通り窓に鎧戸を下さなければならなかった。
見るからに暑苦しいカーキ色の服の襟元を詰めて、わざと風通しを悪くした部屋でゆるい目隠しをされているような時間が、さすがの父親にも堪え難く思われた。
戦争をする相手の国が増えて、質素と倹約の生活を政府がすすめるのと見合うように、近郊へ買い出しに出かける人の数も次第に増えている。現にこの車輌の網棚の荷物も半ばは大きなリュックサックで占められていた。通路も塞がっているので、互に気軽に洗面所へ立つことも出来ない。
ひさしには、座席にいて見渡せる乗客のどの顔も、一様に不機嫌そうに見えた。自分の痛みが高じると、人々の不機嫌も高じるように思われた。
父親は、工場を休んでの葬儀への出席だった。離れた土地にまでわざわざ一人息子を伴う気になったのは、長い間親戚以上の懇意で頼りあった同業の故人に、ひさしが格別可愛がられていたのも理由の一つだが、この時勢では、息子を連れて旅する機会も、これからはなくなるだろうという見通しもあってのことだった。しかしそれだけは、ひさしにも、母親にも言わなかった。
何年か前までは、家族で避暑地に滞在する生活もあった。けれども父親の見る限り、再びそうした生活に戻れるあてはなく、工場での働き手も、一人、また一人と兵役に抜き取られて、次々に戦場に送られていた。工場の規模でさえ、否応なしに縮小を迫られる日のそう遠くはないことも、この父親にはすでに充分予感されていた。
父親は、ひさしを伴うのに、葬儀という名目があってむしろよかったと思った。それで、葬儀が終わると、予め頼んでおいた店に寄って、ひさしに好物の水炊きをたべさせた。
店と言っても、表に看板も掲げていない仕舞屋ふうの造りである。ここの女将と亡くなった人とが普通の親しさではなかったところから、父親はそれまでにも幾度かこの店に案内されていたが、水炊きのよかった記憶がひさしに繋がって、無理を承知で頼んでみた。
ひとしきり思い出話に涙を拭い続けた女将は、こんな時ですから、材料も大っぴらには手に入りませんし、板前も兵隊さんに取られてしまって、いつまで営業出来ますやらと言いながら、それでも贅沢な食卓をととのえてくれた。父親はちょっと箸をつけただけで専ら酒をふくみ、ひさしの食欲を満足そうにながめていた。
ひさしは、初めて会った女将の物言いや仕種を見て、他人の死をこんなにまでかなしむのは、きっと優しい人に違いないと思ったが、そのうちに、そのかなしみの一通りでない様子から、自分を可愛がってくれた人の今まで知らなかった一面を、それとなく知らされもした。
あの小父さんは、自分はさきにさようならしたからいいようなものの、この女の人はこれからどうやって生きていくのだろう。今日という日に、大事な人のお葬式にも出られないで、同じ土地にひっそり動いている女の人を知ったことが、ひさしに、漠然とながら人生の奥行きのようなものを感じさせた。
玄関を出る時、女将は父親に、あまり遠くない時期にぜひもう一度おたずね下さいと言い、父親が女将に、あなたもどうぞ気を強く持って下さいと言っているのをひさしは聞いた。ひさしは、今自分がこの女の人のために出来るのは、心からお礼を言うことだけだと思ったので、父親のそばからただ一言、「ありがとうございました。」と丁寧に言って頭を深く下げた。
町中の掘割を、静かな音を立てて水の流れている町だった。あの世へ旅立ったばかりの人が、今にも後から追って来そうなその掘割のそばを、父親はもう二度と通ることもないだろうと思いながら、一歩一歩を踏みしめるように、黙って駅に向かっていた。
父親が黙っているので、ひさしも黙って少し後から歩いていた。靴をはいた父親の歩き方は、和服に下駄の普段の歩き方よりも、ずっとぎごちなくひさしには見えた。
帰りの列車に乗ると間もなく始まったひさしの歯痛は、時間が経ってもいっこうに楽にはならなかった。少し前に続けていた治療の際の詰物がとれて、そこに何かの繊維がきつくくい込んだらしい。治療の半ばで放り出したことも悔やまれる痛み方だった。
向かいの席で時々額の汗を押えていた父親は、いつの間にか目を閉じていた。隣の老人に寄りかかられて、心持ちからだを斜めに倒している。ひさしの周囲で不機嫌そうな顔をしていた大人達も、列車が走り続けるうちに、振動にまかせて一様に首をかしげ、一様に目を閉じていた。
何とか我慢しよう、とひさしは思った。父親に訴えたところで、父親も困るだろう。楊枝もなければ痛み止めの薬があるわけでもない。ところが、改めて辺りを見廻してみて、目覚めているのがどうやら自分一人と分かると、痛みは耐え難くつのってきた。窓の外の景色に気を紛らせるというわけにもいかないし、嗽に立つことも出来ない。
ひさしは、眠っているらしい人達に気を遣って声を立てず、指で父親の膝をつついた。驚いて目を開いた父親に、ひさしは片頬を片手で押えて、しかめっ面をしてみせた。
「歯か?」と即座に父親は反応した。眉の間に皺を寄せたままひさしはうなずいた。
父親は、困った、という表情になったが、困った、とは言わなかった。その表情を見た途端、ひさしは、「何か挟まっているみたいだけど、大丈夫、取れそうだから。」と言ってしまった。取れそうな気配もなかった。
今度はひさしのほうが目を閉じた。あと一時間半の辛抱だ。そう自分に言いきかせて、自分の手をきつく抓った。いっときして目を開くと、父親が思案顔で見つめている。
「まだ痛むか?」
ひさしは、息を詰めたくなるような痛さにいっそう汗ばんでいたが、「少しだけ。」と答えた。
すると父親は、手にしていた扇子を開きかけ、いきなり縦に引き裂いた。そして、その薄い骨の一本を折り取ると、呆気にとられているひさしの前で、更に縦に細く裂き、「少し大きいが、これを楊枝の代わりにして。」といって差し出した。
ひさしは、頭から冷水を浴びせられたようだった。その扇子は、亡くなった祖父譲りのもので、父親がいつも持ち歩いているのを知っていたし、扇面には、薄墨で蘭が描かれていた。その蘭を、いいと思わないかといってわざわざ父親に見せられたこともある。
ひさしは、「蘭が……」と言ったきり、あとが続かなくなった。
父親に促されるまま、ひさしは片手で口を蔽うようにして、細くなった扇子の骨を歯に当てた。
熱が退くように、痛みは和らいでいった。ひさしから痛みが消えたのを見届けると、父親はハンカチーフでゆっくり顔を一拭きした。それからまた、元のように目を閉じた。
ひさしは、自分の意気地なさを後悔した。
父親が惜し気もなく扇子を裂いてくれただけに、責められ方も強かった。うれしさも、ありがたさも通り越して、なんとなく情けなくなっていた。
しかし、ひさしはその一方で、ずっと大切にしてきたものを父親に裂かせたのは、自分だけではないかもしれないとも思い出していた。はっきりとは言葉に出来ないのだが、決して望むようにではなく、やむをえない場所で否応なしの勤めをさせられているように見えるこの頃の父親を、ひさしは気の毒にも健気にも思い始めていた。
静かな音を立てて水の流れる掘割のそばを、ぎごちない足どりで駅に向かっていた父親の背が、向かいの席で目を閉じている父親に重なった。今頃あの女のひとはどうしているだろう。列車の振動に身をまかせて、ひさしもやがてゆっくりと目を閉じた。
Speak Your Mind