なぜ車輪動物がいないのか
デューク大学はダーラムという町にある。タバコ畑の広がるのどかなノースカロライナ州の片田舎だ。森の中に点々と建物がたっているだけで、歩いて行ける距離には何もない。買い物をするにも、子供を学校に連れて行くに車がなければとても生きていけない世界だった。
日本では自動車への依存度はアメリカほどではないけれども、車輪のお世話になっている点では、似たようなものだろう。毎朝駅まで自転車で出て、電車にゆられて勤め先に急ぐ。車輪がなければ、現代人の生活は回転していかない。
ところが、まわりを見回しても、車輪を転がして走っている動物には、まったくお目にかかれない。陸上を走っているものたちは、二本であれ、四本であれ、六本であれ、突き出た足を前後に振って進んでいく。空を見上げても、プロペラ機は飛んでいても、プロペラの付いた鳥や昆虫はいないし、海の中でもやはり、スクリューや外輪船のような、回転する駆動装置をもった魚はいない。
生物界には車輪がない。身の回りにある道具類は、よく調べてみると、その原理は生物がとうの昔に発明していたものばかりの中で、車輪は例外的に、人類独自の偉大な発明なんだ、と学生時代に習って、なるほどと感心した記憶がある(あれからもう二十年たってしまった)。
ところが、その後、自然界にも車輪があることが分かってきた。あの、顕微鏡でもなかなか見るのがむずかしいほど小さいバクテリアが、毛のはえた車輪を回転させて泳いでいたのである。
それにしても、われわれが肉眼で見ている動物たちに、なぜ車輪を使うものがいないのだろうか。これほど便利なものを使わないのには、それなりの理由があるのかもしれない。私の友人マイク·ラバーベラがサイズの観点から、この問題を論じている。それを紹介しよう。
まず陸上を動くものから考えることにする。自動車が便利なことに異論はないであろうが、これはガソリンを食うので、ひとまず置いておくとして、車輪の良さをしみじみ体感できるのは自転車であろう。同じ自分の足を使うのに、こんなにも速く楽に走れるなんて!と、学校にあがる前、一時間十円の貸自転車に心を躍らせたものである。事実、自転車というものは、人間の使う陸上の移動道具のうちで、もっともエネルギー効率の良いものである。自動車もこの点ではかなわない。
一般的にいって、なぜ車輪がこれほど好まれるかといえば、エネルギー効率が大変に良いからである。足を前後に振って歩くやりかたでは、前に振った足を止めて、逆に後ろへ振りと、振る方向を変えねばならない。そのときにエネルギーがいる。また、足を上げたり下げたりするわけだから、これは重力に対して余計な仕事をすることになる。ところが回転運動ならば、回転方向は一定であり、上下動もない。前後,上下に振り動かす余計なエネルギーは使わなくてよい。だから、あの大変そうに見える車椅子でも、エネルギー的には、歩くよりもよっぽど楽である。
ただし、これは平らな良い道を行く場合の話で、ちょっとでも凸凹があると、たちまち難渋しはじめる。やはり車椅子が大変なことに違いはない。車椅子と同列に論じては、はなはだ申し訳ないが、息子をベビーカーにのっけて押していると、このあたりの大変さが私にも分かる。舗装した道路を押して歩いている分には楽なものだが、階段は担いで昇らねばならないし、砂利道やぬかるみときた日には、もうお手上げだ。車輪は平坦なかたい道では威力を発揮するが、凸凹ややわらかい地面では、ほとんど役に立たないのである。
それでは、どのくらいの凸凹があると車輪は使えないのだろうか。こういうことに関しては、車椅子に関する資料がそろっている。車輪の直径の四分の一までの高さの段ならば、体を前後させて車椅子の重心を動かすことにより、なんとかクリアできる。それ以上高い段は越すのがむずかしく、車輪の直径の二分の一より高い段を越すことは原理的にできない。車椅子の車輪の直径は六十一~六十六センチなので、十六センチの凸凹が車椅子の使える限度といえる。
地面のやわらかさの方はどうかというと、ふかふかの絨毯の上では、車椅子はなかなか前に進まない。われわれが歩く際には、足は地面をズルズルと擦って歩いているのではなく、動いている方の足は宙に浮いているし、地面に着いている方の足は、その場所を踏みしめたままだ。だから、地面との摩擦が大きくなっても、歩く効率はあまり落ちない。ところが車輪は、連続的に地面との摩擦を保ちながら地面をずって回っていく。だから、地面がふかふかしたりネチャネチャしたりすれば、回転に対する抵抗がすぐに大きくなって、回りにくくなる。例えば、泥道は、コンクリートの道路に比べて、回転の抵抗は五~八倍になるし、砂の上なら十~十五倍にもなる。
さて、自然に目を向けてみよう。石ころのゴロゴロしていない、草が繁ってふかふかしていない、雨がふってもどろんこにならない、そんな地形はどこにあるだろうか。
われわれの目からみたら、自然はけっこう平らに見えるかもしれない。ただし、ここで忘れてならないことは、ヒトという生き物は、大変に大きい生き物だということである。百六十センチの高さから世界を見ている動物は、そう多くはない。われわれのサイズだからこそ、直径六十センチ以上もある車輪を使って、十六センチの凸凹でも問題にせずにすむ。ネズミが車輪を使うとしたら、車輪の直径が六センチ程度になるだろうが、それなら一·五センチの小石や枯れ枝に難渋することになる。アリが四ミリの車輪を使うとしたら、一ミリの砂粒や落ち葉一枚に立往生してしまうだろう。
「地面の凸凹を調べた結果によると、どうも、大きい凸凹ほど数が少なく、小さいものになればなるほど、数が多くなっていくものらしい。だから、われわれの目に平らと見えるところでも、小さな凸凹はたくさんあり、動物のサイズが小さくなればなるほど、地面は起伏に富んだ世界となる。つまり、車輪はますます使いにくくなっていくのである。
サイズの大きいものにとっても、車輪はそうそう使い勝手のいいものではない。車でロッククライミングをやろうったって、それは無理だ。車輪は地面との摩擦力がないと働けないので、垂直な壁を登ることはできない。手足なら、しがみついて登れる。車輪はジャンプすることもできない。車椅子の例では、幅二十センチの溝でも越えられない。マウンテン·シープは十四メートルもジャンプして谷を越す。
車輪の大きな欠点は、小回りのきかないことだ。まず、向きを変えるのがむずかしい。車椅子の場合、百八十度回転するのには、百五十センチ四方もの空間がいる。また、二台の車椅子がすれ違うには、二台の幅だけの道幅がどうしても必要となる。ヒト二人がすれ違うときを考えてみれば、横向きになってすれ違ってもいいし、やむを得なければピョイと飛び越してもいいので、車とはえらく違う。
ただ速いばっかり速くても、小回りがきかなければ、木立や岩などの障害物の多いところでは、車輪は立ち往生してしまうだろう。車輪動物が二匹狭い山道でばったり出会ったら、すれ違うこともできず、さりとて回り右してもどることもできず、二匹とも進退きわまるということに、ならぬともかぎらない。
こう見てくると、車輪というものは、われわれヒトのような大きな生き物が、山をけずり、谷をうめて、かたい平坦でまっすぐな幅広の舗装道路を造ってはじめて使い物になる、ということは分かると思う。
舗装道路を帝国内にあまねく造り、車を走らせたのはローマ人である。しかし帝国が崩壊し、道路の維持補修がなされなくなった後には、その道をラクダやロバが背に荷物を積んで步いていた。がたがたの道では、車は使えなくなったのである。
広く、まっすぐで、かたい道。階段のない、袋小路のない、道幅の広い町並み。これらは車に適した設計である、戦前には、ほとんど見られなかったものである。
私は長く沖縄に住んでいたが、小さな離島を訪れるたびに、島が変わっていくのが、よくわかる。白いサンゴの砂を敷きつめた福木の並木が涼しい影を落とす美しい道が、次に訪れたときにはただ広いだけのコンクリート道路に変わっている。日中など、焼けた鉄板の上にいるのと同じで、とても歩けたものではない。なんでこんなことをするのかと聞くと、狭い岛で公共事業をやろうとすれば、道路を「良くする」のと、砂浜の海岸をコンクリートで固めて「護る」しか、やることはないのだそうだ。
技術というものは、次の3つの点から、評価されねばならない。(1)使い手の生活を豊かにすること、(2)使い手と相性がいいこと、(3)使い手の住んでいる環境と相性がいいこと。
産業革命以来、技術はわれわれの生活を豊かにしてきた。エンジンはわれわれの筋肉を増強し、その結果、われわれは楽に大きな力を出せるようになった。望遠鏡や顕微鏡は目の力を増強し、遠くのものや小さいものを見えるようにしてくれた。コンピュータは脳の力を増強し、おかげではやく複雑な計算をしたり、大量の記憶を処理できるようになった。
これらの技術がわれわれの暮らしを豊かにしてきたのは、間違いのない事実である。しかし、使い手を豊かにするという観点ばかりに重きをおいて技術を評価する従来のやり方を、考え直すべきときにきているのもまた事実である。自動車というものは、これまでの基準からすれば完成度のかなり高い技術なのだけれど、人間との相性や環境との相性を考えに入れると、まだまだ未熟な技術と言っていい。
人間との相性ということからみれば、道具が、手や足や目や頭の、すなおな延長であれば、それに越したことはない。作動する原理が、道具と人間とで同じならば、相性はよくなる。残念ながら、コンピュータやエンジンは、脳や筋肉とはまったく違った原理で動いている。だから操作がむずかしいのである。自動車学校にみんなが行って免許をとらなければいけないこと自体、車というものが、まだまだ完成されていない技術だという証拠であろう。
環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、ここで論じてきたように、車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ、働けないものである。使い手の住む環境を、あらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。
環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だから山を拓き、谷をうめ、「良い」道路をつくることは、当然よいこととして、問題にされてこなかったようだ。車は機械文明の象徴と言っていい。アッピア街道やアウトバーンを造った人たちが、征服せねばやまぬ思想の持ち主だったことは、まさに象徴的なことである。
(『ゾウの時間ネズミの時間』中公新書より)
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