《日语综合教程》第五册 第6课 なぜ車輪動物がいないのか

なぜ車輪動物がいないのか

デューク大学(だいがく)はダーラムという(まち)にある。タバコ(ばたけ)(ひろ)がるのどかなノースカロライナ(しゅう)片田舎(かたいなか)だ。(もり)(なか)点々(てんてん)建物(たてもの)がたっているだけで、(ある)いて()ける距離(きょり)には(なに)もない。()(もの)をするにも、子供(こども)学校(がっこう)()れて()くに(くるま)がなければとても()きていけない世界(せかい)だった。

日本(にほん)では自動車(じどうしゃ)への依存(いぞん)()はアメリカほどではないけれども、車輪(しゃりん)のお世話(せわ)になっている(てん)では、()たようなものだろう。毎朝(まいあさ)(えき)まで自転車(じてんしゃ)()て、電車(でんしゃ)にゆられて(つと)(さき)(いそ)ぐ。車輪(しゃりん)がなければ、現代(げんだい)(じん)生活(せいかつ)回転(かいてん)していかない。

ところが、まわりを見回(みまわ)しても、車輪(しゃりん)(ころ)がして(はし)っている動物(どうぶつ)には、まったくお()にかかれない。陸上(りくじょう)(はし)っているものたちは、()(ほん)であれ、(よん)(ほん)であれ、(ろっ)(ぽん)であれ、()()(あし)前後(ぜんご)()って(すす)んでいく。(そら)見上(みあ)げても、プロペラ()()んでいても、プロペラの()いた(とり)昆虫(こんちゅう)はいないし、(うみ)(なか)でもやはり、スクリューや外輪船(がいりんせん)のような、回転(かいてん)する駆動(くどう)装置(そうち)をもった(さかな)はいない。

生物(せいぶつ)(かい)には車輪(しゃりん)がない。()(まわ)りにある道具(どうぐ)(るい)は、よく調(しら)べてみると、その原理(げんり)生物(せいぶつ)がとうの(むかし)発明(はつめい)していたものばかりの(なか)で、車輪(しゃりん)例外(れいがい)(てき)に、人類(じんるい)独自(どくじ)偉大(いだい)発明(はつめい)なんだ、と学生(がくせい)時代(じだい)(なら)って、なるほどと感心(かんしん)した記憶(きおく)がある(あれからもう二十(にじゅう)(ねん)たってしまった)。

ところが、その()自然(しぜん)(かい)にも車輪(しゃりん)があることが()かってきた。あの、顕微鏡(けんびきょう)でもなかなか()るのがむずかしいほど(ちい)さいバクテリアが、()のはえた車輪(しゃりん)回転(かいてん)させて(およ)いでいたのである。

それにしても、われわれが肉眼(にくがん)()ている動物(どうぶつ)たちに、なぜ車輪(しゃりん)使(つか)うものがいないのだろうか。これほど便利(べんり)なものを使(つか)わないのには、それなりの理由(りゆう)があるのかもしれない。(わたし)友人(ゆうじん)マイク·ラバーベラがサイズの観点(かんてん)から、この問題(もんだい)(ろん)じている。それを紹介(しょうかい)しよう。

まず陸上(りくじょう)(うご)くものから(かんが)えることにする。自動車(じどうしゃ)便利(べんり)なことに異論(いろん)はないであろうが、これはガソリンを()うので、ひとまず()いておくとして、車輪(しゃりん)()さをしみじみ体感(たいかん)できるのは自転車(じてんしゃ)であろう。(おな)自分(じぶん)(あし)使(つか)うのに、こんなにも(はや)(らく)(はし)れるなんて!と、学校(がっこう)にあがる(まえ)(いち)時間(じかん)(じゅう)(えん)(かし)自転車(じてんしゃ)(こころ)(おど)らせたものである。事実(じじつ)自転車(じてんしゃ)というものは、人間(にんげん)使(つか)陸上(りくじょう)移動(いどう)道具(どうぐ)のうちで、もっともエネルギー効率(こうりつ)()いものである。自動車(じどうしゃ)もこの(てん)ではかなわない。

一般(いっぱん)(てき)にいって、なぜ車輪(しゃりん)がこれほど(この)まれるかといえば、エネルギー効率(こうりつ)大変(たいへん)()いからである。(あし)前後(ぜんご)()って(ある)くやりかたでは、(まえ)()った(あし)()めて、(ぎゃく)(うし)ろへ()りと、()方向(ほうこう)()えねばならない。そのときにエネルギーがいる。また、(あし)()げたり()げたりするわけだから、これは重力(じゅうりょく)(たい)して余計(よけい)仕事(しごと)をすることになる。ところが回転(かいてん)運動(うんどう)ならば、回転(かいてん)方向(ほうこう)一定(いってい)であり、上下動(じょうげどう)もない。前後(ぜんご)(じょう)()()(うご)かす余計(よけい)なエネルギーは使(つか)わなくてよい。だから、あの大変(たいへん)そうに()える車椅子(くるまいす)でも、エネルギー(てき)には、(ある)くよりもよっぽど(らく)である。

ただし、これは(たい)らな()(みち)()場合(ばあい)(はなし)で、ちょっとでも凸凹(でこぼこ)があると、たちまち難渋(なんじゅう)しはじめる。やはり車椅子(くるまいす)大変(たいへん)なことに(ちが)いはない。車椅子(くるまいす)同列(どうれつ)(ろん)じては、はなはだ(もう)(わけ)ないが、息子(むすこ)をベビーカーにのっけて()していると、このあたりの大変(たいへん)さが(わたし)にも()かる。舗装(ほそう)した道路(どうろ)()して(ある)いている(ぶん)には(らく)なものだが、階段(かいだん)(かつ)いで(のぼ)らねばならないし、砂利(じゃり)(みち)やぬかるみときた()には、もうお手上(てあ)げだ。車輪(しゃりん)平坦(へいたん)なかたい(みち)では威力(いりょく)発揮(はっき)するが、凸凹(でこぼこ)ややわらかい地面(じめん)では、ほとんど(やく)()たないのである。

それでは、どのくらいの凸凹(でこぼこ)があると車輪(しゃりん)使(つか)えないのだろうか。こういうことに(かん)しては、車椅子(くるまいす)(かん)する資料(しりょう)がそろっている。車輪(しゃりん)直径(ちょっけい)(よん)(ぶん)(いち)までの(たか)さの(だん)ならば、(からだ)前後(ぜんご)させて車椅子(くるまいす)重心(じゅうしん)(うご)かすことにより、なんとかクリアできる。それ以上(いじょう)(たか)(だん)()すのがむずかしく、車輪(しゃりん)直径(ちょっけい)()(ぶん)(いち)より(たか)(だん)()すことは原理(げんり)(てき)にできない。車椅子(くるまいす)車輪(しゃりん)直径(ちょっけい)六十一(ろくじゅういち)六十六(ろくじゅうろく)センチなので、十六(じゅうろく)センチの凸凹(でこぼこ)車椅子(くるまいす)使(つか)える限度(げんど)といえる。

地面(じめん)のやわらかさの(ほう)はどうかというと、ふかふかの絨毯(じゅうたん)(うえ)では、車椅子(くるまいす)はなかなか(まえ)(すす)まない。われわれが(ある)(さい)には、(あし)地面(じめん)をズルズルと()って(ある)いているのではなく、(うご)いている(ほう)(あし)(ちゅう)()いているし、地面(じめん)()いている(ほう)(あし)は、その場所(ばしょ)()みしめたままだ。だから、地面(じめん)との摩擦(まさつ)(おお)きくなっても、(ある)効率(こうりつ)はあまり()ちない。ところが車輪(しゃりん)は、連続(れんぞく)(てき)地面(じめん)との摩擦(まさつ)(たも)ちながら地面(じめん)をずって(まわ)っていく。だから、地面(じめん)がふかふかしたりネチャネチャしたりすれば、回転(かいてん)(たい)する抵抗(ていこう)がすぐに(おお)きくなって、(まわ)りにくくなる。(たと)えば、泥道(どろみち)は、コンクリートの道路(どうろ)(くら)べて、回転(かいてん)抵抗(ていこう)()(はち)(ばい)になるし、(すな)(うえ)なら(じゅう)十五(じゅうご)(ばい)にもなる。

さて、自然(しぜん)()()けてみよう。(いし)ころのゴロゴロしていない、(くさ)(しげ)ってふかふかしていない、(あめ)がふってもどろんこにならない、そんな地形(ちけい)はどこにあるだろうか。

われわれの()からみたら、自然(しぜん)はけっこう(たい)らに()えるかもしれない。ただし、ここで(わす)れてならないことは、ヒトという()(もの)は、大変(たいへん)(おお)きい()(もの)だということである。百六十(ひゃくろくじゅう)センチの(たか)さから世界(せかい)()ている動物(どうぶつ)は、そう(おお)くはない。われわれのサイズだからこそ、直径(ちょっけい)六十(ろくじゅう)センチ以上(いじょう)もある車輪(しゃりん)使(つか)って、十六(じゅうろく)センチの凸凹(でこぼこ)でも問題(もんだい)にせずにすむ。ネズミが車輪(しゃりん)使(つか)うとしたら、車輪(しゃりん)直径(ちょっけい)(ろく)センチ程度(ていど)になるだろうが、それなら一·五(いってんご)センチの小石(こいし)()(えだ)難渋(なんじゅう)することになる。アリが(よん)ミリの車輪(しゃりん)使(つか)うとしたら、(いち)ミリの砂粒(すなつぶ)()()(いち)(まい)(たち)(おう)(じょう)してしまうだろう。

地面(じめん)凸凹(でこぼこ)調(しら)べた結果(けっか)によると、どうも、(おお)きい凸凹(でこぼこ)ほど(かず)(すく)なく、(ちい)さいものになればなるほど、(かず)(おお)くなっていくものらしい。だから、われわれの()(たい)らと()えるところでも、(ちい)さな凸凹(でこぼこ)はたくさんあり、動物(どうぶつ)のサイズが(ちい)さくなればなるほど、地面(じめん)起伏(きふく)()んだ世界(せかい)となる。つまり、車輪(しゃりん)はますます使(つか)いにくくなっていくのである。

サイズの(おお)きいものにとっても、車輪(しゃりん)はそうそう使(つか)勝手(がって)のいいものではない。(くるま)でロッククライミングをやろうったって、それは無理(むり)だ。車輪(しゃりん)地面(じめん)との摩擦(まさつ)(りょく)がないと(はたら)けないので、垂直(すいちょく)(かべ)(のぼ)ることはできない。手足(てあし)なら、しがみついて(のぼ)れる。車輪(しゃりん)はジャンプすることもできない。車椅子(くるまいす)(れい)では、(はば)二十(にじゅう)センチの(みぞ)でも()えられない。マウンテン·シープは十四(じゅうよん)メートルもジャンプして(たに)()す。

車輪(しゃりん)(おお)きな欠点(けってん)は、小回(こまわ)りのきかないことだ。まず、()きを()えるのがむずかしい。車椅子(くるまいす)場合(ばあい)百八十(ひゃくはちじゅう)()回転(かいてん)するのには、百五十(ひゃくごじゅう)センチ四方(しほう)もの空間(くうかん)がいる。また、()(だい)車椅子(くるまいす)がすれ(ちが)うには、()(だい)(はば)だけの道幅(みちはば)がどうしても必要(ひつよう)となる。ヒト二人(ふたり)がすれ(ちが)うときを(かんが)えてみれば、横向(よこむ)きになってすれ(ちが)ってもいいし、やむを()なければピョイと()()してもいいので、(くるま)とはえらく(ちが)う。

ただ(はや)いばっかり(はや)くても、小回(こまわ)りがきかなければ、木立(こだち)(いわ)などの障害(しょうがい)(ぶつ)(おお)いところでは、車輪(しゃりん)()往生(おうじょう)してしまうだろう。車輪(しゃりん)動物(どうぶつ)()(ひき)(せま)山道(やまみち)でばったり出会(であ)ったら、すれ(ちが)うこともできず、さりとて(まわ)(みぎ)してもどることもできず、()(ひき)とも進退(しんたい)きわまるということに、ならぬともかぎらない。

こう()てくると、車輪(しゃりん)というものは、われわれヒトのような(おお)きな()(もの)が、(やま)をけずり、(たに)をうめて、かたい平坦(へいたん)でまっすぐな幅広(はばひろ)舗装(ほそう)道路(どうろ)(つく)ってはじめて使(つか)(もの)になる、ということは分かると思う。

舗装(ほそう)道路(どうろ)帝国(ていこく)(ない)にあまねく(つく)り、(くるま)(はし)らせたのはローマ(じん)である。しかし帝国(ていこく)崩壊(ほうかい)し、道路(どうろ)維持(いじ)補修(ほしゅう)がなされなくなった(のち)には、その(みち)をラクダやロバが()荷物(にもつ)()んで步いていた。がたがたの(みち)では、(くるま)使(つか)えなくなったのである。

(ひろ)く、まっすぐで、かたい(みち)階段(かいだん)のない、袋小路(ふくろこうじ)のない、道幅(みちはば)(ひろ)町並(まちな)み。これらは(くるま)(てき)した設計(せっけい)である、戦前(せんぜん)には、ほとんど()られなかったものである。

(わたし)(なが)(おき)(なわ)()んでいたが、(ちい)さな離島(りとう)(おとず)れるたびに、(しま)()わっていくのが、よくわかる。(しろ)いサンゴの(すな)()きつめた福木(ふくぎ)並木(なみき)(すず)しい(かげ)()とす(うつく)しい(みち)が、(つぎ)(おとず)れたときにはただ(ひろ)いだけのコンクリート道路(どうろ)()わっている。日中(にっちゅう)など、()けた鉄板(てっぱん)(うえ)にいるのと(おな)じで、とても(ある)けたものではない。なんでこんなことをするのかと()くと、(せま)い岛で公共(こうきょう)事業(じぎょう)をやろうとすれば、道路(どうろ)を「()くする」のと、砂浜(すなはま)海岸(かいがん)をコンクリートで(かた)めて「(まも)る」しか、やることはないのだそうだ。

技術(ぎじゅつ)というものは、(つぎ)の3つの(てん)から、評価(ひょうか)されねばならない。(1)使(つか)()生活(せいかつ)(ゆた)かにすること、(2)使(つか)()相性(あいしょう)がいいこと、(3)使(つか)()()んでいる環境(かんきょう)相性(あいしょう)がいいこと。

産業(さんぎょう)革命(かくめい)以来(いらい)技術(ぎじゅつ)はわれわれの生活(せいかつ)(ゆた)かにしてきた。エンジンはわれわれの筋肉(きんにく)増強(ぞうきょう)し、その結果(けっか)、われわれは(らく)(おお)きな(ちから)()せるようになった。望遠鏡(ぼうえんきょう)顕微鏡(けんびきょう)()(ちから)増強(ぞうきょう)し、(とお)くのものや(ちい)さいものを()えるようにしてくれた。コンピュータは(のう)(ちから)増強(ぞうきょう)し、おかげではやく複雑(ふくざつ)計算(けいさん)をしたり、大量(たいりょう)記憶(きおく)処理(しょり)できるようになった。

これらの技術(ぎじゅつ)がわれわれの()らしを(ゆた)かにしてきたのは、間違(まちが)いのない事実(じじつ)である。しかし、使(つか)()(ゆた)かにするという観点(かんてん)ばかりに(おも)きをおいて技術(ぎじゅつ)評価(ひょうか)する従来(じゅうらい)のやり(かた)を、(かんが)(なお)すべきときにきているのもまた事実(じじつ)である。自動車(じどうしゃ)というものは、これまでの基準(きじゅん)からすれば完成(かんせい)()のかなり(たか)技術(ぎじゅつ)なのだけれど、人間(にんげん)との相性(あいしょう)環境(かんきょう)との相性(あいしょう)(かんが)えに()れると、まだまだ未熟(みじゅく)技術(ぎじゅつ)()っていい。

人間(にんげん)との相性(あいしょう)ということからみれば、道具(どうぐ)が、()(あし)()(あたま)の、すなおな延長(えんちょう)であれば、それに()したことはない。作動(さどう)する原理(げんり)が、道具(どうぐ)人間(にんげん)とで(おな)じならば、相性(あいしょう)はよくなる。残念(ざんねん)ながら、コンピュータやエンジンは、(のう)筋肉(きんにく)とはまったく(ちが)った原理(げんり)(うご)いている。だから操作(そうさ)がむずかしいのである。自動車(じどうしゃ)学校(がっこう)にみんなが()って免許(めんきょ)をとらなければいけないこと自体(じたい)(くるま)というものが、まだまだ完成(かんせい)されていない技術(ぎじゅつ)だという証拠(しょうこ)であろう。

環境(かんきょう)(くるま)との相性(あいしょう)問題(もんだい)は、大気(たいき)汚染(おせん)との関連(かんれん)(いま)まで問題(もんだい)にされることが(おお)かった。しかし、ここで(ろん)じてきたように、(くるま)というものは、そもそも環境(かんきょう)をまっ平らに変えてしまわなければ、働けないものである。使い手の住む環境を、あらかじめガラリと()えなければ作動(さどう)しない技術(ぎじゅつ)など、上等(じょうとう)技術(ぎじゅつ)とは()いがたい。

環境(かんきょう)征服(せいふく)することに、人類(じんるい)偉大(いだい)さを(かん)じてきたのが機械(きかい)文明(ぶんめい)である。だから(やま)(ひら)き、(たに)をうめ、「()い」道路(どうろ)をつくることは、当然(とうぜん)よいこととして、問題(もんだい)にされてこなかったようだ。(くるま)機械(きかい)文明(ぶんめい)象徴(しょうちょう)()っていい。アッピア街道(かいどう)やアウトバーンを(つく)った(ひと)たちが、征服(せいふく)せねばやまぬ思想(しそう)()(ぬし)だったことは、まさに象徴(しょうちょう)(てき)なことである。

(『ゾウの時間(じかん)ネズミの時間(じかん)中公新書(ちゅうこうしんしょ)より)

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