木の葉の魚
アイは、貧しい漁師の娘でした。
その漁師の家の貧乏さかげんといったら、財産は何一つなく、借り物の小舟が一艘に、借り物の網が、たった一枚あるだけでした。それなのに、子供ばかりは十人もいて、おまけに、その子供たちを養う父親は、病気ばかりしているといった具合でした。
さて、その家の一番上の娘のアイが年頃になって、いよいよどこかにお嫁にやらなければならなくなった時、母親は自分の娘をつくづくと眺めて考えました。
こんなに色が黒くて、学校にもろくに行かなかった娘を、もらってくれる人がいるだろうか……
それでも、自分の娘は、なんとか幸せになってほしいと願うのが親心というもので、アイの母親は、村の人に会うたびにこんなふうに頼んだものでした。
「うちのアイに、お婿さんを探しておくれ。ご覧のとおりの貧乏人で、仕度はなんにもしてやれないが、嫁入りの時には、とっときの道具を一つ持たせてやるつもりだから」
村の人達はふんふんと頷きましたが、アイの家の山ほどの借金の事を思い出して、誰一人本気でアイのお婿さんを探そうとはしませんでした。
ところが、このアイを大喜びでもらおうという人が出てきました。それは、遠い山の村から時々野菜を売りにやってくる婆さんで、山番をしている自分の息子の嫁に、ぜひアイをほしいと言い出したのです。その婆さんの話はこうでした。
「貧乏はお互い様だ。アイちゃんみたいに働き者の娘をうちの嫁さんにもらえたら、どんなに助かるかしれない。仕度はなんにもいらないから、体一つで来ておくれ」
これを聞いてアイの母親は大喜びしました。願ったりかなったりの話だと思ったのです。
こうして、それからいくらも経たないうちにアイは、山からやって来た行商の婆さんに連れられて、まだ見たこともない人のところへ嫁入りすることになったのです。
いよいよアイが村を離れる前の晩に、母親は古い鍋を一つ出して来てこう言いました。
「いいかい、アイ、これがお前のたった一つの嫁入り道具だよ。汚い鍋だけれど、これ一つがお前を幸せにするからね」
アイは、ぽかんと母親を見詰めました。母親はそのアイの耳に口を寄せて、鍋の蓋をそっと開けました。
「これから母さんの言う事をようく覚えておくんだよ。これは不思議な鍋でね、この中に山の木の葉を二、三枚入れて蓋をして、ちょっと揺すって又蓋を開けると、木の葉はすばらしい焼き魚になるんだよ。そこに柚子でも絞って食べてごらん。そりゃもう、とびきりの御馳走だから」
アイは目を丸くして、そんな不思議な品物が、一体どうして自分の家にあったんだろうかと考えました。すると母親はアイを両手で抱き寄せてささやきました。
「この鍋には母さんの祈りがこもっているんだよ。お前が幸せになるように、母さんは百日、海の神様にお願いして、この鍋をもらったんだから。だけどね、このことをようく覚えておおき。あんまりやたらにこの鍋を使ってはいけないよ。なぜって、この鍋に入れられた木の葉が焼き魚に変わる時に、海ではちょうど同じ数の魚がお前のために死んでくれるんだからね。その事を考えて、この鍋は嫁入りをした最初の晩と、それから本当に大事な時にだけ、使うんだよ」
アイは頷きました。母親は鍋をていねいに風呂敷に包んで、アイに手渡しました。
こうして、鍋を一つ抱えただけの海の娘は、お姑さんの後について旅立ったのです。
長い道程でした。
二人はバスに三時間も揺られたあと、石ころだらけの山道を何時間も歩きました。おろしたての草履が磨り減って、鼻緒が切れるくらい歩き続けた時、やっとがけの下の小さいな家に着きました。
それは緑の木漏れ日に包まれた草屋根の家でした。家の前には高い朴の木と小さな葱の畑がありました。
「ここだここだ。ここが、わしらの家だ」とお姑さんが言いました。アイは目をぱちぱちさせて、「いい家ですねえ、立派な屋根ですねえ」といいました。アイが今まで住んでいた海の家はトタン葺きで、屋根には石がたくさんのせてあったのです。それに比べると、この草屋根はなんとどっしりとぶ厚くて、温かい感じがするんだろうかとアイは思いました。
すると、その家の戸ががらっと開いて、これはまた、どっしりとしてあったかい感じのする若者が顔を出しました。若者はアイを見ると、それはいい感じに笑ったものですから、アイは一目でこの人が好きになりました。
その夜、アイは母親からもらった鍋を使って、とびきりおいしい魚の料理をこしらえました。
鍋の中に、朴の葉を三枚並べて蓋をしてちょっと揺すって、又蓋を開けると――
どうでしょう。鍋の中にはカレイが三匹、ちょうどいい具合にこんがりと焼けていたのです。
アイは、焼きたての魚に塩を振り掛けてお皿にのせて食卓に運びました。料理の上手なお嫁さんが来たことを、アイの夫はただもう喜びました。けれども、お姑さんは箸を動かしながら首を傾げました。
(はて、これはどうしたわけだろう。魚はどこで手に入れたんだろう。たしかに、この娘は鍋一つしか持って来なかったのに……)
けれども、お嫁さんはそれっきり、鍋を高い戸棚にしまいこんで使おうとしませんでした。
静かで平和な日々が過ぎて行きました。山ではふくろうが鳴き、鳩が鳴き、きつねが鳴きました。そんな動物たちの声をアイは聞き分けることができるようになりました。朝は早く起きて水を汲み、昼は畑を耕し、夜は機織をして、毎日せっせと働いて、春が過ぎて行きました。
ところが、その年の夏は雨が多く肌寒く、めったに晴れる日はありませんでした。そのために秋になっても山の木の実は実らず、丹精した畑の作物も腐ってゆきました。
おそろしい飢饉がやって来たのです。
長いあいだアイの一家は、乏しい食べ物で食いつないできましたが、とうとう細い薩摩芋が一本しか残らなくなった時に、お姑さんは青い顔をしてアイに言いました。
「いつかの魚の料理を作ってもらえないかねえ。もう食べ物は何にもなくなってしまった」
その目は、あの鍋の秘密をちゃんと見抜いているように思われました。アイは頷きました。こんな時には海の神様も許してくれると思ったのです。アイは家の外へ出て行くと、木の葉を三枚とって来て鍋に並べました。それから蓋をしてちょっと揺すって、また蓋を開けると鍋の中には、すずきが三匹じゅうじゅうと焼けていました。それを三枚のお皿にとりわけながら、アイは真っ青な秋の海を思い浮かべました。アイは自分達のために命を捨ててくれた三匹の魚にそっと手を合わせました。
雑木林の向こうに住んでいる隣の家の人々がやって来たのは、それからしばらくあとのことでした。
今ごろ、魚の焼けるにおいがするので、ちょっと寄ってみました。この飢饉に一体どこで魚を手の入れたのか、それを聞こうと思って――
おどおどとへつらうように隣の人は言いました。これを聞いてお姑さんは、アイに魚を焼くように言いました。そこでアイは、又木の葉をお客の数だけ鍋に入れました。
「さあさあ、遠慮なく食べていってください」とお姑さんは言いました。お客は大喜びで魚を食べて帰ったのです。
ところが、困ったことになりました。
あの家に行けば、魚がただで食べられるという噂が、村から村へと広まり、遠い道を歩いて飢えた人達が、アイの家をたずねてくるようになったのです。アイは、朝から晩まで台所に閉じこもって、木の葉を鍋に入れては魚の料理を拵えました。ああ、これで何十匹、海の魚が死んだろうか……そんなふうに思いながら、それでもアイは手を休めることができませんでした。魚を食べたい人達は、あとからあとからやって来ましたから。
ある日、とうとうお姑さんが言いました。
「こんなときにただで魚を振舞うこともあるまい。うちも貧乏なんだから、魚一匹につき、米一合でも、大根一本でも、いくらかのお金でも、もらったらいいと思うが……」
これを聞いてアイはすぐこう答えました。
「あの鍋はやたらに使ってはいけないと、里の母さんに言われました。ただで魚を上げるのならまだしも、お金や物と交換するのでは、海の神様にすみません。鍋に入れた木の葉の数だけ海では魚が死ぬのだと聞いています」
すると、お姑さんは笑いました。
「山の木の葉と海の魚はおんなじことさ。山の木の葉が取っても取ってもなくならないように、海の魚だって、なくなりゃしない」
横からアイの夫も口を合わせました。
「そうとも。海の魚は山の木の葉とおんなじだ」
仕方なく、アイは又台所に入って行って、魚の料理を拵え続けたのです。ああ、せつないせつないと思いながら、何百枚何千枚の木の葉を鍋に入れ続けたのです。
林の中の小さな家は、やがて魚のにおいでいっぱいになりました。それにつれて、家の中は米や豆や野菜や果物でいっぱいになりました。魚を食べたいばかりに、人々はとっときの食べ物を持ってやってきたのでしたから。そのうちに、アイの夫は山番の仕事をやめました。お姑さんも畑仕事や縫い物をやめました。アイの夫は、時々もらいものの野菜や豆をかごに入れて麓の村に売りに行きました。そうして、いくらかのお金を作っては戻って来たのでしたが、ある日のこと、アイに一枚の美しい着物を買ってきたのです。
それは白地に、椿の花がほとほとと散っている着物でした。その花びらの、ぽってりとした赤がアイの心をくすぐりました。ま新しい着物を手にしたのは生まれてはじめてのことでしたから。アイは涙が出るほどうれしいと思いました。突き上げてくる喜びの渦の中で、アイは海の神様への後ろめたさも里の母親の注意もさらりと忘れました。新しい着物を抱き締めて、この鍋がお前を幸せにすると言った母の言葉はこういうことだったかと自分なりに解釈したのです。
それからというもの、アイは喜んで魚を焼くようになりました。
アイの家に魚を食べに来る人々の群れが細い山道にひしめきました。アイの家はどんどん豊かになり、アイは美しい着物を何枚も持ってるようになりました。
そうして、それから、どれほどの月日が過ぎたでしょうか。
激しい雨が丸々なのか降り続いたある明け方のこと――
三人はドドーッという不気味な音を聞きました。それから、家がぐらりと大きく揺れるのを感じました。
「山崩れだ!」
アイの夫が叫びました。
「後ろの崖が崩れてくる!」
とお姑さんも叫びました。たちまちのうちに、天井がメリメリと鳴り、柱が揺れました。ああ、家が潰れる……もう逃げることもできずにアイの夫が畳の上に蹲った時、いきなりアイが言ったのです。
「いいや、違う……」と。
それからアイは天井を見上げて、
「あれは海の波の音だ」とつぶやきました。
「波の音?波の音がどうしてこんなところまで聞こえるものか」
「そうとも。お前の空耳だ」
けれどもこの時、アイは懐かしさに躍り上がり、髪を振り乱して戸口に駆けていたのです。そうして、カタリと戸を開けると――
どうでしょう。
山の木もれ陽とそっくりの色をした海の水が、ゆらゆらと家の中にあふれこんで来るではありませんか。
「ほうら!」とアイは叫びました。それから、上を見上げて何もかもを知ったのです。
なんとアイの家は、海の底に沈んでいたのです。
一体、どういうわけでそんなことになったのか分かりません。大津波でも起きて、遠い海が山まで押し寄せてきたのか、それとも海の神様の大きな手が、この小さな家をつまみ上げて海の底に沈めてしまったのか……
それにしても、海の底に沈められても、三人は苦しくも寒くもなく、ただ、体がいつもより少し軽いだけでした。三人は戸口のところに集まって、呆気にとられて上を眺めました。
この家を覆っていた緑の木の葉はみんな生きた魚になり、群れをなして泳いでいくところです。しばらくその美しさに見とれたあと、お姑さんがため息をついて言いました。こんなところに沈められて、この先、どうやって生きていったらよかろうかと。
この時です。アイはずっとずっと上の方で、誰かが自分を呼ぶのを聞きました。
「アイ、アイ、こっちへおいで」
温かいやさしい声でした。
「アイ、アイ、こっちへおいで」
「ああ、母ちゃん!」
思わずアイは両手を上げました。それから、よくよく目を凝らすと、網が――そうです。まぎれもなく、アイの家の継ぎ接ぎだらけの借り物の網が頭の上いっぱいにひろがっているではありませんか。
「父ちゃんの舟がきてるんだ」
とアイは叫びました。
「父ちゃん母ちゃん、網で引き上げておくれ。私達を助けておくれ」
アイは駆け出しました。続いて、アイの夫お姑さんもアイの後を追いました。
ゆらゆら揺れる緑色の水の中を、三人は両手を広げて走り続けました。
こんぶの森を通りました。サンゴの林もわかめの野原も通りました。
網はどんどん大きく広がって行き、海全体をすっぽりと覆い尽くして行くようでした。
お昼を過ぎて夕暮れが近づいて、海の底に射し込む陽の光が緑から紫に変わる頃、三人の体はいきなりふうっと浮き上がりました。まるで三匹の魚のように。
三人は網を目掛けてのぼって行きます。両手を広げてゆらゆらとのぼって行きます。
アイの母親のやさしい声が、おいで、おいでと呼んでいます。もうすぐ、もうすぐなのです。
(『南の島の魔法の話』講談社文庫より。漢字表記の改正あり)
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