《日语综合教程》第五册 第4课 庭

(にわ)というものは()まいの(そと)にありながら、室内(しつない)雰囲気(ふんいき)(すく)なからぬ影響(えいきょう)(あた)える()まいの装置(そうち)である。たとえば居間(いま)などに(すわ)って何気(なにげ)なく(そと)視線(しせん)()げるとき、そこにあるのが(あか)るい芝生(しばふ)(ひろ)がりであるか、こんもりとした(まつ)(しげ)みであるかによって()まいの気分(きぶん)はかなり(こと)なるであろう。ぼくは(おや)庭先(にわさき)(いえ)()てて()んでいるので自分(じぶん)(にわ)()えるものを()たないのだが、それでも窓辺(まどべ)食卓(しょくたく)から父母(ふぼ)(にわ)(のぞ)むことが出来(でき)る。この(にわ)は“庭園(ていえん)(ふう)(ととの)えられてはいない雑木(ぞうき)ばかりの(ひろ)がりだが、それがかえって四季(しき)折々(おりおり)(うつ)()わりを鋭敏(えいびん)(うつ)()すことになって(この)ましく(かん)じられ、春先(はるさき)にヒョロリとした(うめ)(おも)いもかけぬ片隅(かたすみ)(ちい)さく(いろど)ったり、枯木立(かれこだ)ちが(ふゆ)()()をちぢに()いたりするのを(なが)めやることで、ささくれ()った気分(きぶん)(なご)(おも)いをすることが(おお)い。

(にわ)(なが)めるという一見(いっけん)目立(めだ)たない行為(こうい)は、ぼくを(ふく)日本人(にほんじん)日常(にちじょう)生活(せいかつ)(なが)れの(なか)意外(いがい)重要(じゅうよう)一種(いっしゅ)節目(ふしめ)になっているらしい。たとえば山口(やまぐち)(ひとみ)哀切(あいせつ)きわまりない私小説(ししょうせつ)(しゅう)(にわ)砂場(すなば)』の(なか)同名(どうめい)短編(たんぺん)はその典型(てんけい)(てき)(れい)(ひと)つであろう。この小説(しょうせつ)(つぎ)のように()()される。

今年(ことし)梅雨(つゆ)殊更(ことさら)(なが)(かん)じられた。三月(さんがつ)にも四月(しがつ)にも(あめ)(おお)かったせいだろう。(わたし)陰鬱(いんうつ)気分(きぶん)()らしていた。梅雨(つゆ)(とき)(かなら)ずしも(きら)いではなかった。それは(しげ)った樹木(じゅもく)のせいだ。青葉(あおば)(しげ)った樹木(じゅもく)(あめ)()りかかるのを()るのは()気持(きも)ちのものだった。紫陽花(あじさい)()きだし、紫式部(むらさきしきぶ)(うす)いピンクの(はな)()くのもいい。

(わたし)樹木(じゅもく)間近(まぢか)()える居間(いま)長椅子(ながいす)(すわ)って(にわ)()(あめ)()ていた。そうしていると気分(きぶん)(しず)んでくる。……」

作者(さくしゃ)分身(ぶんしん)である主人公(しゅじんこう)は、こうして(にわ)(なが)めているうちに最近(さいきん)次々(つぎつぎ)()くなった肉親(にくしん)たちに(おも)いを()せていく。つまり気分(きぶん)がますます(しず)みこんでいくわけで、これは(さき)()べた「気分(きぶん)(なご)む」のとは(ぎゃく)のように(おも)えるかもしれないが、(じつ)は、普段(ふだん)()(ころ)していた感情(かんじょう)(にわ)(なが)めに(さそ)()され、一種(いっしゅ)放電(ほうでん)()こすことによって抑圧(よくあつ)解消(かいしょう)されるのだから、本質(ほんしつ)(てき)には「(なご)む」のと(おな)現象(げんしょう)である。そのことは、ひとしきり死者(ししゃ)(おも)った(のち)風呂場(ふろば)(あたま)(あら)っている主人公(しゅじんこう)が、葬式(そうしき)では(けっ)して()かなかった自分(じぶん)(なみだ)(なが)していることに()づく、という結末(けつまつ)によっても(あき)らかだ。

(おも)うに(にわ)(おお)きな効用(こうよう)(ひと)つは、このような治癒(ちゆ)効果(こうか)にあるのではないだろうか。そのために最低限(さいていげん)必要(ひつよう)なのは、()まいに(せっ)して、とくに(うつく)しいものや素晴(すば)らしい(なが)めではなくとも、視線(しせん)()けとめてくれるに()私的(してき)(かこ)われた自然(しぜん)断片(だんぺん)存在(そんざい)することである。それを()(こころ)(なご)むのは、自然(しぜん)(いとな)みというものが、いかに断片(だんぺん)であっても、人間(にんげん)日常(にちじょう)生活(せいかつ)偶発(ぐうはつ)(てき)喜怒哀楽(きどあいらく)独立(どくりつ)したリズムを()って(うご)いており、ぼくたちはそのリズムを(かん)じとることで自分(じぶん)感情(かんじょう)をなにがしか相対(そうたい)()できるからではないか。つまりこの場合(ばあい)視線(しせん)()けとめてくれるということは感情(かんじょう)()けとめてくれるというのにほぼ(ひと)しい。

もちろん、こうした効用(こうよう)(にわ)(そと)遠望(えんぼう)する風景(ふうけい)公共(こうきょう)緑地(りょくち)にもないことはない。しかし、ここが微妙(びみょう)なとことで、私的(してき)領域(りょういき)である(にわ)とその(そと)とではどうも()きめが(ちが)うようだ。それはたぶん、感情(かんじょう)(たく)(がわ)意識(いしき)がおのずから(こと)なるからだろう。(そと)対象(たいしょう)()げかけることによって結果(けっか)(てき)治癒(ちゆ)する感情(かんじょう)(なみ)というものは、たいてい、とりたてて深刻(しんこく)なものとは(かぎ)らぬにせよ、(とう)本人(ほんにん)にとっては他人(たにん)()られずに()めておきたい、高度(こうど)にプライベートな(たぐい)のものである。だから、そうした感情(かんじょう)放電(ほうでん)自分(じぶん)(ゆる)すためには、人間(にんげん)他人(たにん)干渉(かんしょう)をあたう(かぎ)(まぬか)れた、心理(しんり)(てき)安全(あんぜん)保護(ほご)された境地(きょうち)にいる必要(ひつよう)がある。そうなると自分(じぶん)のいる場所(ばしょ)も、感情(かんじょう)(たく)対象(たいしょう)私的(してき)領域(りょういき)(うち)にあるほうが有利(ゆうり)なので、自宅(じたく)(にわ)(なが)めている状態(じょうたい)一番(いちばん)(てき)していることになる。不思議(ふしぎ)なもので、(にわ)(そと)草木(くさき)感情(かんじょう)(たく)してもそうたやすく他人(たにん)(さと)られるわけはないのだが、人里(ひとざと)(はな)れた一軒家(いっけんや)周囲(しゅうい)(だい)自然(しぜん)ならともかく、公園(こうえん)(みどり)街路樹(がいろじゅ)相手(あいて)では感情(かんじょう)放電(ほうでん)するのがちょっと()ずかしい、というのが、人間(にんげん)の、(すく)なくとも都会人(とかいじん)一般(いっぱん)(てき)心理(しんり)であるらしい。

(にわ)雑木林(ぞうきばやし)(ふう)にさり()ないのがいい、と(おも)っているせいで、ぼくは(にわ)つくりを(まか)された場合(ばあい)でも樹木(じゅもく)種類(しゅるい)(こま)かく指定(してい)したりはしないのだが、そういう、おおざっぱさの(なか)でやや(つよ)執着(しゅうちゃく)するのは、室内(しつない)から()わたせるほど()位置(いち)、とくに日常(にちじょう)生活(せいかつ)中心(ちゅうしん)になる居間(いま)食堂(しょくどう)(まえ)落葉樹(らくようじゅ)大木(たいぼく)(はい)することである。これは樹種(じゅしゅ)()わぬにしても、その姿(すがた)には注文(ちゅうもん)()け、可能(かのう)ならば実物(じつぶつ)()選定(せんてい)する。ぼくの理想(りそう)(ふと)(みき)(ひと)背丈(せたけ)ぐらいまでスッと()び、そこから(うえ)(えだ)(ひろ)がりを()()である。もっとも予算(よさん)制約(せいやく)でこうした(おも)いが(かな)わず、サイズが不十分(ふじゅうぶん)なものを将来(しょうらい)生長(せいちょう)期待(きたい)して()えることもある。

この一本(いっぽん)()への執着(しゅうちゃく)は、(ひと)つには季節(きせつ)(おう)じて()づくろいを()える落葉樹(らくようじゅ)が、(まえ)(しる)したような、(にわ)精神(せいしん)(てき)治癒(ちゆ)効果(こうか)不可欠(ふかけつ)自然(しぜん)のリズムを(もっと)象徴(しょうちょう)(てき)(うつ)()すからだ。落葉樹(らくようじゅ)(なつ)(あつ)(しげ)みで(すず)しい木陰(こかげ)をつくり、(ふゆ)には()をふるい()として陽光(ようこう)透過(とうか)させる。()うまでもなく、(はる)()()どきや、(あき)(いろ)づく()には、その時々(ときどき)(なが)めがある。しかしそれと(なら)んで重要(じゅうよう)なもう(ひと)つの理由(りゆう)は、(おお)きな落葉樹(らくようじゅ)室内(しつない)気候(きこう)にも(すぐ)れた影響(えいきょう)(およ)ぼすことである。落葉樹(らくようじゅ)季節(きせつ)変化(へんか)当然(とうぜん)、その()(めん)する部屋(へや)()()たりを自然(しぜん)(いとな)みによって(じつ)具合(ぐあい)よく調整(ちょうせい)することにもなるのだ。

ぼくはこの落葉樹(らくようじゅ)恩恵(おんけい)自分(じぶん)(いえ)年々(ねんねん)実感(じっかん)しつづけている。両親(りょうしん)(いえ)庭先(にわさき)南北(なんぼく)細長(ほそなが)()っているわが()南端(なんたん)がほとんど敷地(しきち)境界(きょうかい)(せっ)し、その(めん)(にわ)()たないのだが、さいわい隣地(りんち)公園(こうえん)で、その落葉樹(らくようじゅ)()()ちが()()たり調整(ちょうせい)効果(こうか)をもたらしてくれる。(なつ)はうっそうと(しげ)()室内(しつない)(みどり)反映(はんえい)でほの(ぐら)()たし、(ふゆ)()(えだ)()かしてくる(ひく)陽射(ひざ)しが(おく)までさしこんで、()れた()昼過(ひるす)ぎまでは暖房(だんぼう)()らないほど(あたた)かい。

ここまで(しる)して()たように、(にわ)四季(しき)反映(はんえい)(つよ)(もと)め、それを「(なが)める」ことに(にわ)最大(さいだい)意義(いぎ)見出(みいだ)すのは、どうも日本人(にほんじん)特有(とくゆう)庭園(ていえん)(かん)であるようだ。いかに私的(してき)(かこ)われていようと、また(ひと)()(くわ)えられていようと、日本人(にほんじん)(にわ)(もと)めるのは自然(しぜん)のミニチュアであり、その自然(しぜん)志向(しこう)(いし)(やま)に、(すな)(みず)見立(みた)てた枯山水(かれさんすい)のような屈折(くっせつ)した操作(そうさ)(ふく)(にわ)まで一貫(いっかん)している。これは結局(けっきょく)自然(しぜん)克服(こくふく)すべき対象(たいしょう)としてではなく、親和(しんわ)(てき)環境(かんきょう)としてとらえる日本的(にほんてき)自然(しぜん)(かん)由来(ゆらい)するもので、むろんぼくの雑木林(ぞうきばやし)(この)みもその影響(えいきょう)()にあると()えるだろう。

(『()まい(かた)演出(えんしゅつ)中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)より。一部(いちぶ)削除(さくじょ)あり)

Speak Your Mind

*