日常の思想
余暇というものをどう考えたらよいかいう問題について、哲学的考察をせよというのが新聞社が私に与えた課題である。余暇の問題は、漸次重要な問題になってゆく。なぜなら、科学技術の発展と共に、生産力は向上し、人間の労働時間が短縮するのは、資本主義国と社会主義国とを問わず、科学技術を採用している現代の文明のたどる必然の方向であるからである。むしろこのことはよいことなのである。なぜなら人間が、衣食の心配から解放されて、自由な時間をもつことは、何よりも人間にとって望ましいことだからである。
かつて人類にとって、自由な時間は、ぜいたく以外の何物でもなかった。なぜなら、人類の大多数が、生存を維持するために労働を余儀なくされているとき、そのような労働に従事しない人間は、それだけで、罪を背負っていたからである。したがって、自由な精神的仕事に従事する宗教家は、自ら物質欲と性欲をたった。つまり禁欲を自由な精神生活の代価として支払ったのである。ここでは、閑暇は全く少数の例外者にのみ許された特権であった。もとより人類は、今までこのような労働中心主義的価値観に生きたが、特にこのような価値観を強くもっているのは近代西洋文明であり、日本人が、このような価値観に徹底したのは明治以後であると思う。徳川時代においては労働と同時に遊びの価値を評価する視点がまだあった。
しかし明治以後日本が西洋文明の採用に踏み切るや否や、日本人は全く労働を唯一の価値とする一元的価値観をもった。なぜなら、日本人が、日本あるいは東洋の文明がヨーロッパ文明に、とうていかなわないと判断したのは、ヨーロッパ文明がより強い軍事力と共に、より高い生産力をもつということを洞察したゆえであった。ここで日本人の洞察は、あやまってはいない。ヨーロッパの科学文明は、その技術によって生産力を高めようとすることを、その文明の原理とする文明であるから。
日本は、ヨーロッパ諸国の軍事力の圧力の前に到底匹敵しがたい自己を感じると共に、ヨーロッパの科学技術文明の生み出す生産力におどろいたのである。ヨーロッパ文明を移入して、強く豊かな国を作れ、それが過去百年の間の日本の目標であった。こういう目標の中に自己を集中させた日本は、従って、ヨーロッパよりはるかにヨーロッパ的な技術文明を生んだ国、ヨーロッパ諸国より、はるかに技術文明に価値をおく国となった。そういうことは、しばしば文化的後進国に起こることである。科学技術文明は、ヨーロッパにおいて、伝統的な精神文明、特にキリスト教文明との調和の中にあった。しかし日本やアメリカやロシアのように、おくれて技術文明を採用しようとする国において、このような調和は問題ではなく、技術文明だけが性急に移入されたのである。
このような文明の中にあった明治百年の日本において、三つの価値が、価値の王座に君臨した。一つは勤勉。勤勉は、生産力の向上には、欠くべからざる徳である。しかも、おくれてヨーロッパ文明を採用した日本において、勤勉は二重に重視される。私は明治百年の日本人の第一の徳は、やはり勤勉ではなかったかと思う。小学校の庭に二宮尊徳の銅像がつくられる。しかもその像は、たきぎを背負い勉強している像である。かつて多くの像を日本人は尊敬したが、この像ほど、ミミッチイ像はない。一分の寸暇をおしんで働いている。余裕がちっともないのである。働け、働け、さらば救われん、そのような宗教が、明治百年の日本人の宗教であった。二宮尊徳の銅像は、悲しいまでにいじましいわれわれの自画像なのである。
勤勉の徳によって、われわれが期待するのは、繁栄である。繁栄が明治百年の日本の大事な目標であった。そしてその繁栄というのは、物質の豊かさを意味する。しかも近代人にとって物質は、単なる自然物ではない。多くの人間の意思によって作られた物質なのである。今日、われわれの周囲にある物質は、ほとんど自然のものではない。われらが今日価値をおく物質、テレビ、電機製品、自動車、すべて、われらの意思がつくり出し、われわれに奉仕する物質なのである。ここでは、人為的なものが、自然なものより喜ばれる。
このような勤勉、繁栄の価値とならんで、近代人にとって大きな価値は進歩である。だんだんこの世の中がよくなってゆく。物質は豊かになり、人間の知恵は増進してゆき、世の中はだんだん住みやすくなる。それが、近代人の信念というより、信仰でもあった。それゆえ、ここでは変化することが価値であり、スピードが価値であった。変化することが価値であるならば、否定が価値であり、どこへという問いもなく、ただスピードを出すことのみが価値とされるのである。
私は過去百年間、日本人をささえた価値観は、そういう勤勉—繁栄—進歩という価値観であったと思う。このような価値観は、日本人全体の価値観であり、右と左とを問わないのである。むしろ進歩政党ほど、強くこのような価値観の上に立っている。しかしこのような価値観は、現在、大いに動揺している。むしろ、このような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。
今日、完全に機械の時代である。多くの単純労働において、機械は人間より、はるか多くの能力を発揮することは、すでに十九世紀において明らかになった。そしてやがて複雑な労働すら、機械は人間にかわってすることが出来るようになった。そして最後に、頭脳労働においてすら機械は、人間に優るようになった。勤勉は唯一絶対の価値であることを失うのである。
なぜなら汗水たらした労働より、むしろゆとりをもった自由な思惟が、技術の発明に好都合であることが多いからである。機械は人間よりはるかに勤勉ですらある。かくして、勤勉は、価値の王座からおちる。それと共に、繁栄ももはや価値の王座に、君臨することがてきない。なぜなら、繁栄は、現在、先進的資本主義国にはほぼ実現されはじめた価値であるからである。もちろん物質的繁栄には限りがないが、今、物質は先進国において、そろそろ過剰になりはじめているのである。しかもその繁栄には、自然が犠牲に供されるのである。つまり自然を自己の意思によって征服することが、ここで繁栄の条件であるが、このように、人為により痛めつけられた自然が、人間に復習をしないかどうかが問題である。
今日、自然は、その調和を乱しつつある。緑の山野は、一面に枯れ山となり、清流は濁流となり、野生の獣はもちろん鳥や魚も一日一日少なくなる。大都会のコンクリートの中にあって、人間が果たして生きることが出来るかどうかは、はなはだ疑問である。公害の問題は、そういう自然破壊の一つの現れであろうが、病はもっと根本的なところんいある。このような繁栄と自然征服という価値がゆらぎはじめてきているのである。
そして最後に進歩も文明の目標ではなくなる。進歩の思想において、未来は現在よりよくなるという観念がある。ここでは現在は現在として価値あるのではない。むしろ現在は、未来のために是認されるのである。こういう人生観のみが価値をもつとき、われらは、父や母より価値あるが、われらの子はわれらより価値があるということになる。じじつそういう信念によって、進歩的な学生諸君は、父母や教師や大学を否定した。
しかし、今日この勤勉—繁栄—進歩の価値観が急速にくずれていく。代わって遊び—自然—自由の価値観が、価値として登場してくる。ヒッピーの思想は、こういう新しい時代のはしりである。そこでは、一切の労働からはなれ、自由で、自然に帰った生活を送ることが、人間の理想となる。こういうヒッピー族が技術文明の先進国であるアメリカにおいてもっとも多く出ていることに注意したい。
このような遊びの問題について今後、この連載で他の論者によって論じられるであろうが、私は一言だけ言っておきたい。勤勉—繁栄—進歩の価値観は崩壊しようとしている。それに代わって、遊び—自然—自由が、新しい価値観として立てられようとしているとしても、なおそのような価値観は人類を長い間ささえる価値観とならないであろう。なぜならいったん、文明の木の実を食べた人間は、再び、非文明へ逆転することは出来ないからである。対立する二つの価値観を調和する点を発見すること、そのへんに新しい文明の原理は見つけ出されると私は思う。
(『日常の思想』集英社より)
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