《日语综合教程》第五册 第3课 日常の思想

日常の思想

余暇(よか)というものをどう(かんが)えたらよいかいう問題(もんだい)について、哲学(てつがく)(てき)考察(こうさつ)をせよというのが新聞(しんぶん)(しゃ)(わたし)(あた)えた課題(かだい)である。余暇(よか)問題(もんだい)は、漸次(ぜんじ)重要(じゅうよう)問題(もんだい)になってゆく。なぜなら、科学(かがく)技術(ぎじゅつ)発展(はってん)(とも)に、生産(せいさん)(りょく)向上(こうじょう)し、人間(にんげん)労働(ろうどう)時間(じかん)短縮(たんしゅく)するのは、資本(しほん)主義(しゅぎ)(こく)社会(しゃかい)主義(しゅぎ)(こく)とを()わず、科学(かがく)技術(ぎじゅつ)採用(さいよう)している現代(げんだい)文明(ぶんめい)のたどる必然(ひつぜん)方向(ほうこう)であるからである。むしろこのことはよいことなのである。なぜなら人間(にんげん)が、衣食(いしょく)心配(しんぱい)から解放(かいほう)されて、自由(じゆう)時間(じかん)をもつことは、(なに)よりも人間(にんげん)にとって(のぞ)ましいことだからである。

かつて人類(じんるい)にとって、自由(じゆう)時間(じかん)は、ぜいたく以外(いがい)(なに)(ぶつ)でもなかった。なぜなら、人類(じんるい)(だい)多数(たすう)が、生存(せいぞん)維持(いじ)するために労働(ろうどう)余儀(よぎ)なくされているとき、そのような労働(ろうどう)従事(じゅうじ)しない人間(にんげん)は、それだけで、(つみ)背負(せお)っていたからである。したがって、自由(じゆう)精神(せいしん)(てき)仕事(しごと)従事(じゅうじ)する宗教(しゅうきょう)()は、(みずか)物質(ぶっしつ)(よく)性欲(せいよく)をたった。つまり禁欲(きんよく)自由(じゆう)精神(せいしん)生活(せいかつ)代価(だいか)として支払(しはら)ったのである。ここでは、閑暇(かんか)(まった)少数(しょうすう)例外(れいがい)(しゃ)にのみ(ゆる)された特権(とっけん)であった。もとより人類(じんるい)は、(いま)までこのような労働(ろうどう)中心(ちゅうしん)主義(しゅぎ)(てき)価値(かち)(かん)()きたが、(とく)にこのような価値(かち)(かん)(つよ)くもっているのは近代(きんだい)西洋(せいよう)文明(ぶんめい)であり、日本人(にほんじん)が、このような価値(かち)(かん)徹底(てってい)したのは明治(めいじ)以後(いご)であると(おも)う。徳川(とくがわ)時代(じだい)においては労働(ろうどう)同時(どうじ)(あそ)びの価値(かち)評価(ひょうか)する視点(してん)がまだあった。

しかし明治(めいじ)以後(いご)日本(にほん)西洋(せいよう)文明(ぶんめい)採用(さいよう)()()るや(いな)や、日本人(にほんじん)(まった)労働(ろうどう)唯一(ゆいいつ)価値(かち)とする一元(いちげん)(てき)価値(かち)(かん)をもった。なぜなら、日本人(にほんじん)が、日本(にほん)あるいは東洋(とうよう)文明(ぶんめい)がヨーロッパ文明(ぶんめい)に、とうていかなわないと判断(はんだん)したのは、ヨーロッパ文明(ぶんめい)がより(つよ)軍事(ぐんじ)(りょく)(とも)に、より(たか)生産(せいさん)(りょく)をもつということを洞察(どうさつ)したゆえであった。ここで日本人(にほんじん)洞察(どうさつ)は、あやまってはいない。ヨーロッパの科学(かがく)文明(ぶんめい)は、その技術(ぎじゅつ)によって生産(せいさん)(りょく)(たか)めようとすることを、その文明(ぶんめい)原理(げんり)とする文明(ぶんめい)であるから。

日本(にほん)は、ヨーロッパ諸国(しょこく)軍事(ぐんじ)(りょく)圧力(あつりょく)(まえ)到底(とうてい)匹敵(ひってき)しがたい自己(じこ)(かん)じると(とも)に、ヨーロッパの科学(かがく)技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)()()生産(せいさん)(りょく)におどろいたのである。ヨーロッパ文明(ぶんめい)移入(いにゅう)して、(つよ)(ゆた)かな(くに)(つく)れ、それが過去(かこ)(ひゃく)(ねん)(あいだ)日本(にほん)目標(もくひょう)であった。こういう目標(もくひょう)(なか)自己(じこ)集中(しゅうちゅう)させた日本(にほん)は、(したが)って、ヨーロッパよりはるかにヨーロッパ(てき)技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)()んだ(くに)、ヨーロッパ諸国(しょこく)より、はるかに技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)価値(かち)をおく(くに)となった。そういうことは、しばしば文化(ぶんか)(てき)後進(こうしん)(こく)()こることである。科学(かがく)技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)は、ヨーロッパにおいて、伝統(でんとう)(てき)精神(せいしん)文明(ぶんめい)(とく)にキリスト(きょう)文明(ぶんめい)との調和(ちょうわ)(なか)にあった。しかし日本(にほん)やアメリカやロシアのように、おくれて技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)採用(さいよう)しようとする(くに)において、このような調和(ちょうわ)問題(もんだい)ではなく、技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)だけが性急(せいきゅう)移入(いにゅう)されたのである。

このような文明(ぶんめい)(なか)にあった明治(めいじ)(ひゃく)(ねん)日本(にほん)において、(みっ)つの価値(かち)が、価値(かち)王座(おうざ)君臨(くんりん)した。(ひと)つは勤勉(きんべん)勤勉(きんべん)は、生産(せいさん)(りょく)向上(こうじょう)には、()くべからざる(とく)である。しかも、おくれてヨーロッパ文明(ぶんめい)採用(さいよう)した日本(にほん)において、勤勉(きんべん)()(じゅう)重視(じゅうし)される。(わたし)明治(めいじ)(ひゃく)(ねん)日本人(にほんじん)(だい)(いち)(とく)は、やはり勤勉(きんべん)ではなかったかと(おも)う。小学校(しょうがっこう)(にわ)二宮(にのみや)尊徳(そんとく)銅像(どうぞう)がつくられる。しかもその(ぞう)は、たきぎを背負(せお)勉強(べんきょう)している(ぞう)である。かつて(おお)くの(ぞう)日本人(にほんじん)尊敬(そんけい)したが、この(ぞう)ほど、ミミッチイ(ぞう)はない。一分(いっぷん)寸暇(すんか)をおしんで(はたら)いている。余裕(よゆう)がちっともないのである。(はたら)け、(はたら)け、さらば(すく)われん、そのような宗教(しゅうきょう)が、明治(めいじ)(ひゃく)(ねん)日本人(にほんじん)宗教(しゅうきょう)であった。二宮(にのみや)尊徳(そんとく)銅像(どうぞう)は、(かな)しいまでにいじましいわれわれの自画像(じがぞう)なのである。

勤勉(きんべん)(とく)によって、われわれが期待(きたい)するのは、繁栄(はんえい)である。繁栄(はんえい)明治(めいじ)(ひゃく)(ねん)日本(にほん)大事(だいじ)目標(もくひょう)であった。そしてその繁栄(はんえい)というのは、物質(ぶっしつ)(ゆた)かさを意味(いみ)する。しかも近代(きんだい)(じん)にとって物質(ぶっしつ)は、(たん)なる自然(しぜん)(ぶつ)ではない。(おお)くの人間(にんげん)意思(いし)によって(つく)られた物質(ぶっしつ)なのである。今日(こんにち)、われわれの周囲(しゅうい)にある物質(ぶっしつ)は、ほとんど自然(しぜん)のものではない。われらが今日(こんにち)価値(かち)をおく物質(ぶっしつ)、テレビ、電機(でんき)製品(せいひん)自動車(じどうしゃ)、すべて、われらの意思(いし)がつくり()し、われわれに奉仕(ほうし)する物質(ぶっしつ)なのである。ここでは、人為(じんい)(てき)なものが、自然(しぜん)なものより(よろこ)ばれる。

このような勤勉(きんべん)繁栄(はんえい)価値(かち)とならんで、近代(きんだい)(じん)にとって(おお)きな価値(かち)進歩(しんぽ)である。だんだんこの()(なか)がよくなってゆく。物質(ぶっしつ)(ゆた)かになり、人間(にんげん)知恵(ちえ)増進(ぞうしん)してゆき、()(なか)はだんだん()みやすくなる。それが、近代(きんだい)(じん)信念(しんねん)というより、信仰(しんこう)でもあった。それゆえ、ここでは変化(へんか)することが価値(かち)であり、スピードが価値(かち)であった。変化(へんか)することが価値(かち)であるならば、否定(ひてい)価値(かち)であり、どこへという()いもなく、ただスピードを()すことのみが価値(かち)とされるのである。

(わたし)過去(かこ)(ひゃく)年間(ねんかん)日本人(にほんじん)をささえた価値(かち)(かん)は、そういう勤勉(きんべん)繁栄(はんえい)進歩(しんぽ)という価値(かち)(かん)であったと(おも)う。このような価値(かち)(かん)は、日本人(にほんじん)全体(ぜんたい)価値(かち)(かん)であり、(みぎ)(ひだり)とを()わないのである。むしろ進歩(しんぽ)政党(せいとう)ほど、(つよ)くこのような価値(かち)(かん)(うえ)()っている。しかしこのような価値(かち)(かん)は、現在(げんざい)(おお)いに動揺(どうよう)している。むしろ、このような価値(かち)(かん)(うえ)(そだ)った文明(ぶんめい)そのものが、このような価値(かち)(かん)(たい)して懐疑(かいぎ)()げるのである。

今日(こんにち)完全(かんぜん)機械(きかい)時代(じだい)である。(おお)くの単純(たんじゅん)労働(ろうどう)において、機械(きかい)人間(にんげん)より、はるか(おお)くの能力(のうりょく)発揮(はっき)することは、すでに十九(じゅうきゅう)世紀(せいき)において(あき)らかになった。そしてやがて複雑(ふくざつ)労働(ろうどう)すら、機械(きかい)人間(にんげん)にかわってすることが出来(でき)るようになった。そして最後(さいご)に、頭脳(ずのう)労働(ろうどう)においてすら機械(きかい)は、人間(にんげん)(まさ)るようになった。勤勉(きんべん)唯一(ゆいいつ)絶対(ぜったい)価値(かち)であることを(うしな)うのである。

なぜなら汗水(あせみず)たらした労働(ろうどう)より、むしろゆとりをもった自由(じゆう)思惟(しい)が、技術(ぎじゅつ)発明(はつめい)好都合(こうつごう)であることが(おお)いからである。機械(きかい)人間(にんげん)よりはるかに勤勉(きんべん)ですらある。かくして、勤勉(きんべん)は、価値(かち)王座(おうざ)からおちる。それと(とも)に、繁栄(はんえい)ももはや価値(かち)王座(おうざ)に、君臨(くんりん)することがてきない。なぜなら、繁栄(はんえい)は、現在(げんざい)先進(せんしん)(てき)資本(しほん)主義(しゅぎ)(こく)にはほぼ実現(じつげん)されはじめた価値(かち)であるからである。もちろん物質(ぶっしつ)(てき)繁栄(はんえい)には(かぎ)りがないが、(いま)物質(ぶっしつ)先進(せんしん)(こく)において、そろそろ過剰(かじょう)になりはじめているのである。しかもその繁栄(はんえい)には、自然(しぜん)犠牲(ぎせい)(きょう)されるのである。つまり自然(しぜん)自己(じこ)意思(いし)によって征服(せいふく)することが、ここで繁栄(はんえい)条件(じょうけん)であるが、このように、人為(じんい)により(いた)めつけられた自然(しぜん)が、人間(にんげん)復習(ふくしゅう)をしないかどうかが問題(もんだい)である。

今日(こんにち)自然(しぜん)は、その調和(ちょうわ)(みだ)しつつある。(みどり)山野(さんや)は、(いち)(めん)()(やま)となり、清流(せいりゅう)濁流(だくりゅう)となり、野生(やせい)(けもの)はもちろん(とり)(さかな)(いち)(にち)(いち)(にち)(すく)なくなる。(だい)都会(とかい)のコンクリートの(なか)にあって、人間(にんげん)()たして()きることが出来(でき)るかどうかは、はなはだ疑問(ぎもん)である。公害(こうがい)問題(もんだい)は、そういう自然(しぜん)破壊(はかい)(ひと)つの(あらわ)れであろうが、(やまい)はもっと根本(こんぽん)(てき)なところんいある。このような繁栄(はんえい)自然(しぜん)征服(せいふく)という価値(かち)がゆらぎはじめてきているのである。

そして最後(さいご)進歩(しんぽ)文明(ぶんめい)目標(もくひょう)ではなくなる。進歩(しんぽ)思想(しそう)において、未来(みらい)現在(げんざい)よりよくなるという観念(かんねん)がある。ここでは現在(げんざい)現在(げんざい)として価値(かち)あるのではない。むしろ現在(げんざい)は、未来(みらい)のために是認(ぜにん)されるのである。こういう人生(じんせい)(かん)のみが価値(かち)をもつとき、われらは、(ちち)(はは)より価値(かち)あるが、われらの()はわれらより価値(かち)があるということになる。じじつそういう信念(しんねん)によって、進歩(しんぽ)(てき)学生(がくせい)諸君(しょくん)は、父母(ふぼ)教師(きょうし)大学(だいがく)否定(ひてい)した。

しかし、今日(こんにち)この勤勉(きんべん)繁栄(はんえい)進歩(しんぽ)価値(かち)(かん)急速(きゅうそく)にくずれていく。()わって(あそ)び—自然(しぜん)自由(じゆう)価値(かち)(かん)が、価値(かち)として登場(とうじょう)してくる。ヒッピーの思想(しそう)は、こういう(あたら)しい時代(じだい)のはしりである。そこでは、一切(いっさい)労働(ろうどう)からはなれ、自由(じゆう)で、自然(しぜん)(かえ)った生活(せいかつ)(おく)ることが、人間(にんげん)理想(りそう)となる。こういうヒッピー(ぞく)技術(ぎじゅつ)文明(ぶんめい)先進(せんしん)(こく)であるアメリカにおいてもっとも(おお)()ていることに注意(ちゅうい)したい。

このような(あそ)びの問題(もんだい)について今後(こんご)、この連載(れんさい)()論者(ろんしゃ)によって(ろん)じられるであろうが、(わたし)一言(ひとこと)だけ()っておきたい。勤勉(きんべん)繁栄(はんえい)進歩(しんぽ)価値(かち)(かん)崩壊(ほうかい)しようとしている。それに()わって、(あそ)び—自然(しぜん)自由(じゆう)が、(あたら)しい価値(かち)(かん)として()てられようとしているとしても、なおそのような価値(かち)(かん)人類(じんるい)(なが)(あいだ)ささえる価値(かち)(かん)とならないであろう。なぜならいったん、文明(ぶんめい)()()()べた人間(にんげん)は、(ふたた)び、()文明(ぶんめい)逆転(ぎゃくてん)することは出来(でき)ないからである。対立(たいりつ)する(ふた)つの価値(かち)(かん)調和(ちょうわ)する(てん)発見(はっけん)すること、そのへんに(あたら)しい文明(ぶんめい)原理(げんり)()つけ()されると(わたし)(おも)う。

(『日常(にちじょう)思想(しそう)集英社(しゅうえいしゃ)より)

Speak Your Mind

*